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「大覚〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

大覚の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
には御切手町と云ったのですが、普通には下谷坂本と呼んでいました。本当の名は金光山大覚寺というのですが、宗対馬守の息女養玉院の法名を取って養玉院と云うことになりま....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
し付け、百姓どもから利息を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉にあげられた。仁和寺、大覚寺をはじめ、諸|門跡、比丘尼御所、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、御....
大宇宙遠征隊」より 著者:海野十三
りは、ずっとすぐれた頭脳の持主であるといわれる火星人と闘うのであるから、これは一大覚悟を要することだった。 艇員の顔は、曇る。同胞が今危難に苦しんでいるのだと....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
ていると言ったって君、いきているように巧く描けているという意味じゃありませんぜ。大覚寺の松は舞っている、大安寺の藤は遊んでいる、永納の証ある『鷹』は見ましたけれ....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
の見ることのできない世界を見ているのです。ですから、経文《きょうもん》の世界は、大覚者にとっては夢の世界ではなくして、現実の世界です。 ここにお喋《しゃべ》り....
源氏物語」より 著者:紫式部
雅な女主人になる資格のある人であると源氏は思っていた。 源氏の作っている御堂は大覚寺の南にあたる所で、滝殿《たきどの》などの美術的なことは大覚寺にも劣らない。....
青春論」より 著者:坂口安吾
、一王国の主たるべき性格であり、改新的な大事業家たるべき性格であって、この稀有な大覚悟の上に自若と安定したまま不良無頼な一生を終ったという勝夢酔が例外的な不思議....
日本文化私観」より 著者:坂口安吾
山の寺々をめぐり、清滝の奥や小倉山の墓地の奥まで当もなく踏みめぐったが、天龍寺も大覚寺も何か空虚な冷めたさをむしろ不快に思ったばかりで、一向に記憶に残らぬ。 ....
妾の半生涯」より 著者:福田英子
三十六歳を一期《いちご》として、そのまま永《なが》の別れとなりぬ。 第十四大覚悟 アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるより甚《はなは》だしきはなかる....
加波山」より 著者:服部之総
れ方の坂道を登る。私の講座は明朝九時からで、会場は峠を下りきった所にある板敷山の大覚寺の本堂。今夜は桜井君を中心に座談会開催中で、その寺までゆくのだという。宵闇....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
詩、漢詩と和歌との融合 十一 為家 十二 二条・京極・冷泉三家の分立、持明院統と大覚寺統、分立の意義、為世歌論の保守主義、為兼歌論の新鮮さ、『玉葉』の歌と『新後....
私本太平記」より 著者:吉川英治
この高氏なら、そんな下手はやらぬ。もし、やるからには」 何か、総毛立つばかりな大覚悟を感じながらも「……もし、やるなら?」と、心はどこかで踏み迷っていた。「や....
私本太平記」より 著者:吉川英治
東西に居ながれた。 すべて、これらの公卿は、後醍醐が即位の頃からの、いわゆる“大覚寺派”といわれる人々にかぎられて、おなじ宮廷の重臣でも“持明院派”と疑われる....
私本太平記」より 著者:吉川英治
次に。――もう一つの大きな反後醍醐派は、持明院統とよぶものだった。 後醍醐は、大覚寺統である。――やがての「南朝」「北朝」の対立は、この二|統のもつれが遠因を....
私本太平記」より 著者:吉川英治
のではない。 幕府が憎むものは、幕府を倒さではやまじ、としている後醍醐中心の“大覚寺統”一派にあるのみで、おなじ皇室の“持明院統”までを、抹殺しようとするので....