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天海
「天海〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
天海の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
えてあるんじゃねえですかよ。一真寺、浄円題とね。浄円|阿闍梨《あじゃり》といや、
天海寺の
天海僧正と、どっちこっちといわれたほどもこの江戸じゃ名の高かった真言宗の....
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
がまたさらにどうも容易ならぬ右門流でした。 「行く先ゃ忍《しのぶ》ガ岡《おか》の
天海寺だ。急いでやりな」 今の寛永寺なのです、東叡山《とうえいざん》寛永寺とい....
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
う風は梢をさわがして、茶店の軒も葭簀も一面に白い。わたしは悠然として心太を啜る。
天海僧正の墓のまえで、わたしは少年の昔にかえった。(明治32・4) 広島の街を....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
れ、八幡宮も大菩薩と称され、大社|小祠は事実上仏教の一付属たるに過ぎなかったが、
天海僧正以来の僧侶の勢力も神仏|混淆禁止令によって根から覆されたのである。 半....
「蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
の先人には陸奥介行宗《むつのすけゆきむね》の諡《おくりな》が念海、大膳太夫持宗が
天海などと海の字の付く人が多かったから、満海の談《はなし》も何か夫等《それら》か....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
こそ薯《いも》の産地だが、黄八幡の北条の旗風には、関東も靡《なび》いたものだし、
天海僧正様の屋敷だし、徳川の三代将軍もあそこで生れたというところだ。近くはお前、....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
一日一食で済まして、それで達者で長寿をした坊主もいくらもあるじゃ。東叡山寛永寺の
天海和尚というのは、百三十三歳まで生きたが、これも一日一食じゃ。播州の書写山の性....
「武州喜多院」より 著者:中里介山
も有力な大名が封ぜられている、併し、名所及び人物としての川越は、今では喜多院及び
天海僧正にとどめを差すのである、そこで、兎に角、喜多院を目ざして、そうしてその主....
「明治開化 安吾捕物」より 著者:坂口安吾
云うまでもなく大久保長安のことである。 家康の挙用した人物中で、大久保長安は僧
天海以上の怪物であったろう。彼はもと甲州の猿楽師で大蔵太夫と云ったそうだが、能は....
「新西遊記」より 著者:久生十蘭
これ読みあわせてみると、随所に章句の異同や遺漏があって疏通をさまたげるところへ、
天海版、黄檗版、卍蔵版などの新訳が入ってきたので、いっそう混雑がひどくなった。 ....
「学問の独立」より 著者:福沢諭吉
奏するに足るべし。前にいえる林家及びその他の儒流、なお上りて徳川の初代にありては
天海僧正の如き、かつて幕政に関せずして、かえって時として大いに政機を助けたるは、....
「増上寺物語」より 著者:佐藤垢石
あるから、寺としての豪勢、関東に並ぶものはなかった。 上野の、東叡山寛永寺は、
天海上人の開基である。
天海上人は観智国師の法友で、共に武蔵国の人であった。国師の....
「八犬伝談余」より 著者:内田魯庵
書いてない。水軍の策戦は『三国志』の赤壁をソックリそのままに踏襲したので、里見の
天海たる丶大や防禦使の大角まで引っ張り出して幕下でも勤まる端役を振り当てた下ごし....
「江戸芸術論」より 著者:永井荷風
ょく》とこれに対する濃き緑《みどり》と藍《あい》との調和に感じまた他の一作洲崎弁
天海上眺望の図においては黄色と橙色《とうしょく》との調和を見るべし。)なほ道灌山....