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存生
「存生〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
存生の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「国貞えがく」より 著者:泉鏡花
し》を取った。変れば変るもので、まだ、七八《ななや》ツ九《ここの》ツばかり、母が
存生《ぞんしょう》の頃の雛祭《ひなまつり》には、緋《ひ》の毛氈《もうせん》を掛け....
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
われまして、ただいまではまったくその面影すらもとどめていないようですが、名人右門
存生の当時は、すこぶるこのたんざく流しが隆盛をきわめたもので、夏場の両国河岸を色....
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
出向きました。 当時はもちろんまだ但馬守宗矩公《たじまのかみむねのりこう》がご
存生中で、おなじみの十兵衛三厳公《じゅうべえみつよしこう》は大和柾木坂《やまとま....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
い後は若主人として働いている。お秋は女でこそあれ、なかなかのしっかり者で、亭主の
存生《ぞんしょう》当時よりも商売を手広くして、料理番と若い者をあわせて五、六人を....
「七宝の柱」より 著者:泉鏡花
すとな、唯この一巻でも一万円以上であります。」 橘南谿の東遊記に、 これは清衡
存生の時、自在坊蓮光といへる僧に命じ、一切経書写の事を司らしむ。三千日が間、能書....
「死者の書」より 著者:折口信夫
とした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える、唯一の景色であった。 武智麻呂|
存生の頃から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣わして来ている。此頃になって....
「学生と先哲」より 著者:倉田百三
も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。……日蓮が母
存生しておはせしに、仰せ候ひしことも、あまりに背き参らせて候ひしかば、今遅れ参ら....
「貞操問答」より 著者:菊池寛
やりたい気持を抑えて、階下へ降りてみると、上で気がつかない内にそこの玄関へ、父の
存生中から、出入りしている重松という日本橋の時計屋が来ていた。四、五年前までは、....
「奉行と人相学」より 著者:菊池寛
である。 「両親はないか」 「ございません」 「いつ別れた?」 「父は十一歳の時
存生して居りました。母は覚えて居りません」 「近隣の貧しい者達に、時々金銭を合力....
「瓜の涙」より 著者:泉鏡花
祖母は、その日もおなじほどの炎天を、草鞋穿で、松任という、三里隔った町まで、父が
存生の時に工賃の貸がある骨董屋へ、勘定を取りに行ったのであった。 七十の老が、....
「三枚続」より 著者:泉鏡花
の裏通に母親と自分と二人ぐらし、柳屋という小さな絵草紙屋をしているけれども、父が
存生の頃は、隅田川を前に控え、洲崎の海を後に抱き、富士筑波を右左に眺め、池に土塀....
「二葉亭追録」より 著者:内田魯庵
いてしまおうとは誰だって夢にだも想像しなかったのだから、二葉亭だってやはり、もし
存生だったら地震に遭逢したと同様、暗黒でイキナリ頭をドヤシ付けられたように感じた....
「法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
に罹ったという古伝をば、全然無視したもののみではなかった。しかしそれはなお太子御
存生中の出来事として、今の建築物はやはりその後太子その人によって建立せられたもの....
「活人形」より 著者:泉鏡花
に追立てられ、歩むに長き廻廊も死に行く身はいと近く、人形室に引入れられて亡き母の
存生りし日を思い出し、下枝は涙さしぐみぬ。さはあれ業苦の浮世を遁れ、天堂に在す御....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
出来た頼経が、実朝の亡くなったあと、将軍に立てられたのは尤もだった。それに、頼朝
存生中も、兼実や慈円やは、東西の外交に、惟れ努めた方だったから、この家筋の人々は....