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「宇多〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

宇多の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
義民甚兵衛」より 著者:菊池寛
わしゃ恐い。恐い。 首領の一人 臆病者め! 恐がることはない。一揆の人数は綾郡宇多郡を合せて、五万三千人じゃ、なんの恐いことがあるものか。 おきん うんと叱っ....
乱世」より 著者:菊池寛
藩に達したのは、今日限りで松飾りが取れようという、七日の午後であった。 同心の宇多熊太郎という男が、戦場から道を迷って、笠置を越え、伊賀街道を故郷へと馳せ帰っ....
島原の乱」より 著者:菊池寛
り下げてついに斃した。 後に間もなく、信綱知って之を賞し、水野勝成は自ら佩ぶる宇多国房の刀を取って与えたと云う。 細川の先鋒長岡佐渡等の一隊は、四方に四郎時....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
っちゅう》は、これも在来は日本武尊の御鎧《おんよろい》と伝えられたもので、実は後宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。 されば....
脳の中の麗人」より 著者:海野十三
のつもりでいるように」 黒木博士と看護婦長との会話にあらわれた問題の患者|宮川宇多郎氏は、わが身の上にこんな気がかりな話があるとはしるよしもなく、病室内を動物....
日本イデオロギー論」より 著者:戸坂潤
、他の日本主義の一群のものとは異って、必ずしも〔絶対制〕主義でないということだ。宇多天皇は藤原基経に向って「卿者社稷之臣、非朕之臣」と仰せられたそうだが、之こそ....
終電車に乗る妖婆」より 著者:田中貢太郎
評判した。それに大門と金杉橋の間は電車の事故の多い処で、電気局でも之を気にして、宇多川橋の橋の袂に無縁塔を建立すると云っていたがどうなったことやら。....
人生における離合について」より 著者:倉田百三
るこの上ない感謝であって、世間にはこの感激に生きている人は少なくない。あの菅公の宇多上皇に対する恩顧の思い出はそれを示して余りあり、理想の愛人に合うことの悦びは....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
の背景にも相当の古代にさかのぼっての日本史の謎があるように思われる。桓武、清和、宇多というような平安朝の天子を祖とすることまではハッキリしているが、その平安朝の....
反省の文学源氏物語」より 著者:折口信夫
も藤原氏の勢力に押され、そうした運動の無謀さが省みられ、凡情熱の磨滅せられ出した宇多・醍醐の帝の時代を書こうと言う、漠とした予期があったのである。此は、紫式部の....
日本上古の硬外交」より 著者:国枝史郎
つではあったが、もっと重大な原因は、隋、唐と国交を重ぬること推古天皇様十五年より宇多天皇様寛平六年|迄二百八十八年に及びこの長い間に支那大陸の文化の尽くを日本は....
手長と足長」より 著者:喜田貞吉
あるか否かわからぬ。 関東・奥州にはことに手長の社が多い。中にも有名なのは磐城宇多郡(今相馬郡)新地村の手長明神で、これは貝塚と関係のある神らしい。奥羽観蹟聞....
道鏡皇胤論について」より 著者:喜田貞吉
であった。しかし藤原基経の権力は、一旦臣籍に降った侍従源定省を親王に復し、さらに宇多天皇として推戴し奉った例も後には無いではない。ここに阿曾麻呂の奏上を容るる間....
大力物語」より 著者:菊池寛
侶で、広沢の寛朝僧正という人である。大僧正になった人で、仏教の方でも有名であり、宇多天皇の皇子の式部卿の宮の御子である。この人は、広沢に住んでいたが、同時に仁和....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
ことだったと答えられたので、亀山天皇の親政となり、ついでその皇子が即位された。後宇多天皇がそれである。両統の臣下も各々二つに分れて反目するに至った。幕府はそこで....