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安養
「安養〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
安養の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「阿部一族」より 著者:森鴎外
ら、千石取って、鉄砲五十|挺《ちょう》の頭《かしら》になっていた。四月二十九日に
安養寺で切腹した。五十三歳である。藤本|猪左衛門《いざえもん》が介錯《かいしゃく....
「姉川合戦」より 著者:菊池寛
烈無比な死に方をしている。浅井家第一の忠臣と云ってもいいだろう。 浅井方の大将
安養寺三郎左衛門は、織田と浅井家の同盟を斡旋した男だ。長政を落さんとして奮戦中馬....
「島原の乱」より 著者:菊池寛
四郎の返書には、松倉氏の暴政を綿々として訴え、信仰の変え難きを告げ、 「みな極楽
安養すべきこと、何ぞ疑ひこれあるべく候|哉、片時も今生の暇、希ふばかりに候」と結....
「出家とその弟子」より 著者:倉田百三
る証拠であると言おうと思います。私たちはこの濁れた娑婆の世界には望みを置かない。
安養の浄土に希望をいだいている。私たちは病気をしても死を恐れることはない。死は私....
「百姓弥之助の話」より 著者:中里介山
県へも輸出されるとの事だ。 ここから三里離れた飛行場で有名な立川には岩崎家の子
安養豚所がある、これは飛行場よりは寧《むし》ろ草分《くさわけ》なのであるが、さす....
「夢のお七」より 著者:岡本綺堂
て云ふ、わが墳墓は江戸小石川なる円乗寺といふ寺にあれども、後世を弔ふもの絶えて、
安養世界に常住し難し、されば彼の地に尊形の石塔を建て給はゞ、必ず得脱成仏すべしと....
「南国太平記」より 著者:直木三十五
せぬ」
と、平伏した。
「それで、手が、廻ったとは?」
「丁度、不動堂の横――
安養院の木立のところで、仙波と、呼び止めた奴があった」
人々は、仙波を、目で取....
「取返し物語」より 著者:岡本かの子
みか、他宗ながら忰源兵衛の菩提も、こなたで弔い追善供養。三密|瑜伽の加持力にて、
安養成仏諸共に、即身成仏兼ね得させん。心を安めよ仏子源右衛門』 源右衛門(額ずき....
「親鸞」より 著者:三木清
摂取不捨も信も念仏も、人のためとおぼえられず候」とある。 「我が歳きはまりて
安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲の片雄波よせかけよせかけ帰らんに同じ。一人....
「三国志」より 著者:吉川英治
廊に待って、魯粛はまた、自分の主張を切言した。 「彼らの多くは文弱な吏と、老後の
安養を祈る老将ばかりです。君に降服をおすすめするも、ただただ、家の妻子と富貴の日....
「三国志」より 著者:吉川英治
という隠士がおりまする。この人、谷を出でぬこと数十年、庵の裡に一水を持ち、これを
安養泉と称えて、四毒にあたれる旅人や土地の人々を救うてきたこと今日まで何千人か分....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
ごのお別れを遂げたらしいような記録もない。伝説として残っているのは、米子市附近の
安養寺にある五輪ノ塔だけである。 所伝によれば、身の孤独と、世の荒びに、すべて....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
―去年、都から父皇を慕って出雲まで来たが、会うこともかなわず、絶望のあまり米子の
安養寺に入って、乙女尼になっていると、帝へも、風の便りがきこえていた。 「さては....
「山の人生」より 著者:柳田国男
ぶる自己のじつは狸なることを、否定しなかったらしい形がある。東京の近くでは府中の
安養寺に、かつて三世の住職に随逐した筑紫三位という狸があって、それが書いたという....
「日本の伝説」より 著者:柳田国男
たというのであります。 その信州の方にはまた鎌倉石というのがありました。佐久の
安養寺という寺の庭にあって、始めて鎌倉から持って来た時には、ほんの一握りの小石で....