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「島原の乱〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

島原の乱の前後の文節・文章を表示しています。該当する11件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
忠義」より 著者:芥川竜之介
見届《はんもとみとどけ》の重任を辱《かたじけな》くしたのを始めとして、寛永十四年島原の乱に際しては西国《さいごく》の軍に将として、将軍家|御名代《ごみょうだい》....
右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
1 切支丹《きりしたん》騒動として有名なあの島原の乱――肥前の天草で天草四郎たち天主教徒の一味が起こした騒動ですから一名天草....
島原の乱」より 著者:菊池寛
交渉があったから、キリスト教も先ず、この地に伝わった。伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるから此間九十年近い歳月がある。この長い年月に亙っ....
法窓夜話」より 著者:穂積陳重
を犯す者が跡を絶つに至ったということである。 右衛門作、氏は山田、肥前の人で、島原の乱に反徒に党《くみ》して城中に在ったが、悔悟して内応を謀り、事|覚《あら》....
獄中への手紙」より 著者:宮本百合子
島を国内統一に利用し、坊主の勢力削減法としてジェスイストを扱いました。家光の時の島原の乱も、名将言行録の側からみると、又一種の興味がございますね。鼎の重みを問わ....
青春論」より 著者:坂口安吾
だ。又、切支丹は武器をとって抵抗しては殉教と認められない定めがあって、そのために島原の乱の三万七千の戦死者は殉教者とは認められていないのだが、この掟によって、切....
月日の話」より 著者:坂口安吾
から、一ヶ月以上のヒラキがあるのが普通である。私がこのことを肝に銘じたのは、私が島原の乱を書こうと思って文献を調べはじめた時からで、切支丹の文献は、資料が日本側....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
ずに大きな図体を湾内に露出していたのは「大和」であったらしい。 私はそのとき「島原の乱」を書きたいと思い、それを調べるためにあの地方を二週間ぐらいブラブラして....
明日は天気になれ」より 著者:坂口安吾
る。 私は太平洋戦争のはじまる直前のころに、天草、島原などをめぐり歩いた。天草島原の乱を調べるためであった。有家だの口ノ津だの天草下田、大江などとあんまり東京....
天草の春」より 著者:長谷健
そうだが、側なる百姓に聞くと、凡そ次のように説明してくれた。今から三百年許り前の島原の乱後、斬首された切支丹の宗徒の首一万ばかりを、長崎の浦上と島原の原城と、こ....
随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
ある。もっともその前にも、五十五歳で養子の伊織を具して、小笠原|忠真の軍監として島原の乱に出征していたり、二、三明白な事蹟もあるけれど、その言行までは詳しく遺っ....