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常陸風土記
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常陸風土記の前後の文節・文章を表示しています。該当する10件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「富士」より 著者:岡本かの子
いやあい」 といって出て行った。 この山の祖神の福慈の神に対する呪詛の言葉を
常陸風土記では、 汝所居山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民不登、飲食勿奠者....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
七・三九六二)等である。 麻続王が配流されたという記録は、書紀には因幡とあり、
常陸風土記には行方郡板来村としてあり、この歌によれば伊勢だから、配流地はまちまち....
「最古日本の女性生活の根柢」より 著者:折口信夫
巻十四に出た東歌である。新嘗の夜の忌みの模様は、おなじころのおなじ東の事を伝えた
常陸風土記にも見えている。御祖の神すなわち、母神が、地に降って、姉なる、富士に宿....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
司の「解文」に、白河・菊多の関を置きてより今に四百余歳とある文等を玩味するに、『
常陸風土記』の記事等と相啓発して、有史以後においても、なおある期間は関東地方に蝦....
「奥羽地方のシシ踊りと鹿供養」より 著者:喜田貞吉
も鹿のことに多かった事を誇大に述べているのである。別して、関東地方の事については
常陸風土記信太郡の条に、 風俗諺曰、葦原鹿其味若爛、喫異。 と云い、また多珂郡の....
「国栖の名義」より 著者:喜田貞吉
しかし彼らが蝦夷族ではないという事は、十年前と同じく、今もなおこれを信じている。
常陸風土記には国巣を俗に土蜘蛛または八掬脛というとある。そして越後風土記には、こ....
「手長と足長」より 著者:喜田貞吉
って、類似の説を伝え、附近には貝塚があり、参詣者は貝殻を納めるを例とするという。
常陸風土記那賀郡大櫛岡の条に、「上古人あり体極めて長大、身丘壟の上に居て蜃を採て....
「山の人生」より 著者:柳田国男
が山男たちの関与するところではなかった。大人足跡という口碑は、すでに奈良朝期の『
常陸風土記』大櫛岡の条にもある。丘壟の上に腰かけて大海の蜃を採って食ったといい、....
「春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
が、このかけ歌また一種の歌垣である。『摂津風土記』に見える歌垣山、『万葉集』や『
常陸風土記』に見える筑波のカガイ、皆同じ種類のものであろう。自分の郷里においても....
「年中行事覚書」より 著者:柳田国男
方にはまた有名な、富士と筑波という古い話もあるのである。これは奈良朝時代に出来た
常陸風土記という本の中に出ているので、この事が文章になったのは、確かに弘法大師の....