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建長
「建長〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
建長の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「十二支考」より 著者:南方熊楠
は兎も波を走るか面白の島の景色やとあるは『南畝莠言《なんぽいうげん》』上に拠ると
建長寺僧自休が竹生島に題せる詩の五、六の句〈樹影沈んで魚樹に上り、清波月落ちて兎....
「日本脱出記」より 著者:大杉栄
はみな追手のように思われて、二人ともずいぶんびくびくしながら行った。ことに一度、
建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走って来て、やがてまたそ....
「蓮花図」より 著者:宮本百合子
絵が働いて、私は朝靄の裡に開いたばかりの一輪の白蓮の花を思い浮べた。そこは鎌倉、
建長寺の裏道だ。午前五時、私共は徹夜をした暁の散策の道すがら、草にかこまれた池に....
「日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
ことである。仁治元年四月の地震には海嘯があって、由比ヶ浜の八幡宮の拝殿が流れた。
建長二年七月の地震は余震が十六度に及んだ。 正嘉元年八月の地震は、最もひどい地....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
をあばきけるが、やがて息たえにけり、法性寺辺に土葬にしてけり、其後、二十余年経て
建長五年の比《ころ》、改葬せんとて墓をほりたりけるに、すべて物なし、なほふかくほ....
「百姓弥之助の話」より 著者:中里介山
この辺の寺は大抵禅宗寺になっている。本村に三つ寺があるが、何れも禅宗で、妙心派と
建長寺派とに分れている。弥之助の子供の時分にはこの妙心派のお寺が近い隣地にあった....
「獄中への手紙」より 著者:宮本百合子
ちにいるときは。お元気で。 八月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉
建長寺の写真絵はがき)〕 八月四日
建長寺でしょう? 葛西善蔵がいたというと....
「学生と先哲」より 著者:倉田百三
恵と力をはらんで身の重きを感じたツァラツストラのように、張り切った日蓮は、ついに
建長五年四月二十八日、清澄山頂の旭の森で、東海の太陽がもちいの如くに揺り出るのを....
「明治開化 安吾捕物」より 著者:坂口安吾
上へあがって、 「間取りのグアイを見せておくれ。ここは二軒長屋だね。典型的な二階
建長屋づくりだ」 彼は階下階上ともにテイネイに一部屋ずつ見てまわり、台所も、便....
「水〔扉の言葉〕」より 著者:種田山頭火
と、物を粗末にしてはならないことを戒められたのである。そういう話は現代にもある、
建長寺の龍淵和尚(?)は、手水をそのまま捨ててこまった侍者を叱りつけられたという....
「明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
船弁慶」であったが、一番目ではやはり左団次の三浦荒次郎がわたしの眼についた。殊に
建長寺の場で、彼が宗十郎の佐野源左衛門をやりこめて、例の調子で「黙れ、黙れ。だ、....
「法然行伝」より 著者:中里介山
いた。それが「船のうちのはり御影」といって、後嵯峨の塔に残っていた。生年七十八。
建長五年七月二十七日よき往生を遂げた。 播磨の国朝日山の信寂房はやはり法然のお....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
、その流派に尊まれたものである。 この年後嵯峨院が為家に勅命を下され、四年目の
建長三年十月二十七日に奏覧したのが、第十代目の『続後撰和歌集』であった。為家五十....
「父の出郷」より 著者:葛西善蔵
ろで弟は行李を担いで、Fとの二人が茶店の娘に送られて出て行ったが、高い石段を下り
建長寺の境内を通ってちょうど門前の往来へ出たかと思われた時分、私はガランとした室....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
淀や山崎辺に居た浮浪人足の称であったと思われるのである。淀・山崎の散所のことは、
建長五年十月二十一日注出の近衛家所領目録の中にもその名がみえている。 一 散所 ....