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弘仁
「弘仁〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
弘仁の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「古代国語の音韻に就いて」より 著者:橋本進吉
じょうがんしき》』というものがあってそれに改修を加えたもので、『貞観式』はまた『
弘仁式《こうにんしき》』に基づいて出来たものであります。その『
弘仁式』は、嵯峨《....
「丹下左膳」より 著者:林不忘
なかずば射たれまい」の長柄川《ながらがわ》の故事で、これは誰でも知っていますが。
弘仁《こうにん》のころとか、長柄川に橋をかけようという大工事です。何千という人夫....
「日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
をはじめ、飛騨、信濃の諸国に地震があった。天平神護二年六月には、大隅国神造新島、
弘仁九年七月には、相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野の諸国、天長七年一月には、出....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
とう物を懐ろから引張り出して、お宮さん相手に説明する。お宮さん、白鳳期がどうの、
弘仁がああのと言ってもよくわからないが、そこは商売柄、いいかげんに調子を合わせる....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
ほど、真暗い中から、まぼろしが出て来た。 「出たな!」 そうして、うっすらと、
弘仁ぶりの柱と長押が、十字架のように現われると見ると、ひらひらと蝶の舞うように、....
「大鵬のゆくえ」より 著者:国枝史郎
」 「世捨て人だよ。宇治山のな」 「ははあ、さようでございますかな」 「嵯峨天皇
弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。橘奈良丸の子とも云われ紀ノ名虎の子とも云われ....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
に凶事があるとこれに祈った。長子家重が家をついだ。天平勝宝三年に僧勝楽が死んだ。
弘仁と其の弟子の聖雲とが遺骨を納めて勝楽寺をたてた。聖雲は若光の三番目の子である....
「美の日本的源泉」より 著者:高村光太郎
安寺のような新様の形式が大陸の影響下に生れ、それが又日本美に一段の奥深さを加えて
弘仁期への橋を成している。唐招提寺金堂には今でもそれらの巨像がずらりと並んでいる....
「植物一日一題」より 著者:牧野富太郎
ルモノノ唯一ノ例ナリ」、また「みる類ヲ食用ニ供シタルハ往古ヨリ行ハレシモノニシテ
弘仁式ニ尾張ノ染海松ヲ正月三日ノ御贄《おんべ》ニ供ストアリ而シテ現今本邦ニテ主ト....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
て夷俘の長と指定されたものは、その国の夷俘中の人望あるものであった。『日本後紀』
弘仁三年六月二日条に、その同類のうち心性事を了し、衆の推服するところのもの一人を....
「くぐつ名義考」より 著者:喜田貞吉
チの神とも云っていたものらしい。飛騨の工として木材の扱いに慣れた山間の飛騨人は、
弘仁の頃までなお「言語容貌既に他国に異なり」と言われておった。木の霊なるこのクク....
「憑き物系統に関する民族的研究」より 著者:喜田貞吉
る様に、ここでは中古の頃までも、未だ里人に同化しない民衆が住んでいたのであった。
弘仁元年の太政官符にも、「飛騨の民は言語容貌既に他国に異なり」とある。彼らは所謂....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
試みたりしましたが、そんな事はあるべき筈がありません。 その後十余年嵯峨天皇の
弘仁の頃に、さらに文室綿麿が遠征しましたが、この時にはさきに田村麿が行かなかった....
「特殊部落と寺院」より 著者:喜田貞吉
ば十日苦使せよ、五日以上ならば三十日苦使せよ、十日以上ならば百日苦使せよとある。
弘仁三年八月に、僧良勝が女と同車したという罪で、遠く多※島に流されたという実例も....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
の徒となったことの多かったのは、記録文書のうるさいまで証明を与うるところである。
弘仁五年の飛騨の国解によると、飛騨人が「課役を規避して他郷に庸作し、年を積んで帰....