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御陵
「御陵〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
御陵の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「日本山岳景の特色」より 著者:小島烏水
、誰も知っていたものはなかった。 私は讃岐《さぬき》の産れで、国には崇徳上皇の
御陵のある白峰という阜陵《ふりょう》がある、上田秋成の『雨月物語』や、露伴氏の作....
「思い出の記」より 著者:小泉節子
』などと申していましたが、書物にはやはり困ったように書いて居るそうでございます。
御陵にも詣でました。後醍醐天皇の行在所の黒木山へも参りました。その側の別府と申す....
「三角形の恐怖」より 著者:海野十三
うです、もう二十年も昔になりましょうか。先帝陛下が御崩御になって中野の先の浅川に
御陵が出来た頃の話なんですよ。 その当時私はW大学へ通っていました。随分若こう....
「四条畷の戦」より 著者:菊池寛
へらじと」の歌を書きつけたとある。だが、これはうそである。普通に常識の有る者が、
御陵の傍のお堂に、勝手な落書をして行くなんて、考えられないのである。まして、正行....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
によりに観て巡らし、いちじろき神の社に、幣まつりをろがみまし、御世御世のみおやの
御陵、きよまはりをろがみまして、西の海東の山路、かなたこなた巡りましつつ、明けく....
「蛇怨」より 著者:田中貢太郎
は村の南に当る山腹にある瀑で、その北になったかなりの渓谷を距てた処には安徳天皇の
御陵伝説地として有名な横倉と云う山がある。初夏の比その横倉山から眺めると、瀑は半....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
だか、その点がまだはっきりしない。
一説によると、新撰組の一部が仲間割れがして
御陵守《ごりょうもり》になる、それを近藤の部下が追いかけて来て、あの通り斬捨てた....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
それで分離の実を挙げたというのは、彼は策をめぐらして、泉涌寺《せんようじ》の皇家
御陵墓の衛士を拝命することになったのだ。他のなんらの目的、理由、事情を以てすると....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
外。 ところで、二人は追分から、右へ伏見道へそれず、山科に入り、四宮、十禅寺、
御陵、日岡、蹴上、白川、かくて三条の大橋について、京都に入るの本筋を取るつもりで....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
、下のハタの音に関聯せしめたものである。「木幡」は地名、山城の木幡で、天智天皇の
御陵のある山科に近く、古くは、「山科の木幡の山を馬はあれど」(巻十一・二四二五)....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
四通八達していたらしい。これを古に「山の辺の道」と云い、古記にも、崇神天皇には「
御陵ハ山辺道ノ勾之岡ノ上ニアリ」とあり、景行天皇には「
御陵ハ山辺之道ノ上ニアリ」....
「平家蟹」より 著者:岡本綺堂
、迷いの雲霧の霽るるように、御意見申すが法師の務めじゃ。(思案して)まずその前に
御陵に参拝いたそうか。 (浪の音高くきこゆ。) 雨月 おお、日暮れて浪が高うなっ....
「狸問答」より 著者:鈴木鼓村
、ぶらぶらと、智恩院の山内を通って、あれから、粟田にかかろうとする、丁度十楽院の
御陵の近処まで来ると、如何したのか、右手にさしておる傘が重くなって仕方がない、ぐ....
「古事記」より 著者:太安万侶
りまでも。 このヒコホホデミの命は高千穗の宮に五百八十年おいでなさいました。
御陵《ごりよう》はその高千穗の山の西にあります。 アマツヒコヒコナギサタケウガ....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
いるらしい。夙の起原沿革は、別に「夙の者考」に述べておいたが、要するに夙ももとは
御陵守の守戸で、初めは良民であったとしても、その職業上から賤まれて、エタとの間に....