手簡[語句情報] » 手簡

「手簡〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

手簡の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
秋山図」より 著者:芥川竜之介
なさい。私《わたし》が紹介状を書いて上げます」 煙客翁《えんかくおう》は先生の手簡を貰《もら》うと、すぐに潤州へ出かけて行きました。何しろそういう妙画を蔵して....
虚構の春」より 著者:太宰治
も安心いたしました。毎度の御引立、あり難く御礼申しあげます。しかも、このたびの御手簡には、小生ごときにまで誠実懇切の御忠告、あまり文壇通をふりまわさぬよう、との....
雷峯塔物語」より 著者:田中貢太郎
ので、牢屋の内にいる許宣に面会して、その金を旅費に与え、李将仕と相談して、二つの手簡を持って往かすことにした。その手簡の一つは、蘇州の押司の范院長という者に与え....
法窓夜話」より 著者:穂積陳重
にこの主義の忠僕であった。その著書大小六十三巻、氏の歿後、友人ボーリング博士は、手簡および小伝とともにこれを一部に編纂して刊行した。今、世に行わるる「ベンサム全....
梅津只円翁伝」より 著者:杉山萠円
評価する参考材料としてはこの逸話がたった一つ残っているきりである。但、野中到氏の手簡に、 「右藤堂様より伯父(只圓翁)帰宅後、小生今晩は何の御所望なりしやと問い....
風流仏」より 著者:幸田露伴
蹄の音高く朝霧を蹴って勇ましく進むにも刀の鐺引かるゝように心たゆたいしが、一封の手簡書く間もなきいそがしき中、次第に去る者の疎くなりしも情合の薄いからではなし、....
変災序記」より 著者:田中貢太郎
たので、その日五六人の委員と孤蝶翁の家に集まって、文壇の各方面に原稿の寄稿依頼の手簡を出したが、終って夕飯を喫うことになり、江戸川端の「橋本」という鰻屋に往った....
蛇性の婬 」より 著者:田中貢太郎
。で、牢屋の内にいる許宣に面会して、その金を旅費に与え、李将仕と相談して、二つの手簡を持って往かすことにした。その手簡の一つは、蘇州の押司の范院長と云う者に与え....
瘠我慢の説」より 著者:石河幹明
この文を勝、榎本二氏に与えたる後、明治二十五年の二月、更らに二氏の答書を促したる手簡ならびに二氏のこれに答えたる返書を後に附記して、読者の参考に供す。 明治三十四年一月一日 石河幹明 記....
瘠我慢の説」より 著者:榎本武揚
福沢先生の手簡 拝啓仕候。陳ば過日|瘠我慢之説と題したる草稿一冊を呈し候。或は御一読も被....
三国志」より 著者:吉川英治
な書翰だった。 江を渡った使者の船は、呉城に入って、正式に孫策と面会し、袁術の手簡を捧げた。 孫策はすぐ返辞を書いて、 「委細はこのうち」と、軽く使者を追い....
三国志」より 著者:吉川英治
ことばに、郭図はすぐ人を派して辛毘を招いた。 辛毘は欣然と会いにきて、袁譚から手簡を受けた。袁譚は使いの行を旺にするため、兵三千騎を附してやった。 その時、....
三国志」より 著者:吉川英治
手蹟と思って、ひらいてみると、果たして、それは曹操の幕下で日常顔を見ている張允の手簡ではないか。 蔡瑁、張允啓白。 それがしら、一旦、曹に降るは、仕禄を図るに非....
随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
関係から、ほとんど一族として寺では扱っていたものであろう。 後年、武蔵の自筆の手簡や文書などには、宮本姓を書いたり、新免姓を名乗ったりして、両方を用いていたら....
山の人生」より 著者:柳田国男
いと思っている。江戸の人の神に隠された話は、また新井白石も説いている。『白石先生手簡』、年月不明、小瀬復菴に宛てた一通には、次のごとく記してある。 「正月七日の....