» 把捉

「把捉〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

把捉の前後の文節・文章を表示しています。該当する12件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
省察」より 著者:デカルトルネ
が眼で見ると思ったものでも、これをもっぱら私の精神のうちにある判断の能力によって把捉するのである。 しかしながら自己の知識を一般人を超えて高めようと欲する者は....
イデオロギー概論」より 著者:戸坂潤
れば、存在とは観念ということである。だからこの場合の論理は、観念に就いての観念の把捉形式の外ではない。論理は論理・観念の自己同一性なのである。――唯物論は弁証法....
思想としての文学」より 著者:戸坂潤
念の背後に実際上直観が置かれて考えられるし、現実諸科学に於ては概念の背後に経験が把捉されていねばならぬし、哲学などに於ては概念は語感(それは日常生活の体験として....
現代小説展望」より 著者:豊島与志雄
。新即物主義は元来、抽象的な観念を排斥し、空虚な感情の昂揚を排斥して、事物の直接把捉を主張したのであるが、写実的な外形的な叙述を無意味であるとし、所謂報告文学の....
明暗」より 著者:夏目漱石
一種の快感を味わった。それは自分が実際|他《ひと》にそう思われているらしいという把捉《はそく》から来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にす....
語られざる哲学」より 著者:三木清
ばならない。 現実にあくまで執著しようとするものとそれを超越して永遠なるものを把捉しようとするものとの二つの魂の対立に関係して、私は私の衷に外へ拡ろうとする心....
親鸞」より 著者:三木清
理となることはできない。 我々にとって何よりも必要なことはまずこの絶対的真理を把捉することである。しかもこれはただ超越によって捉えられることができる。信とはか....
哲学入門」より 著者:三木清
係させられるものは、ただ我々の観念であり得るのみである。その一致もしくは不一致の把捉が知識であるが、この把捉は判断であり、すべての判断は言葉において命題として表....
木綿以前の事」より 著者:柳田国男
わってみることを心掛けなければならぬが、現在その一部分に事情があって、まだ真意の把捉し難い辞句があるかぎりは、一応の準備としては個々の細部の、成立ちにも注意する....
孔子」より 著者:和辻哲郎
得られよう。 人類の教師がこういうものであれば、その真の伝記は右の結晶の経路を把捉したものでなくてはならぬ。それは文化史的発展の理解であって、個人の生涯の理解....
『青丘雑記』を読む」より 著者:和辻哲郎
ところでこの「否定」は単なる否定ではない。それは著者によれば「本来の境地」の把捉である。いいかえれば「そこよりいで来たるその本源の境地に帰る」ことである。し....
能面の様式」より 著者:和辻哲郎
方は無自覚的になされ得るものではない。顔面は人の表情の焦点であり、自然的な顔面の把捉は必ずこの表情に即しているのである。ことに能面の時代に先立つ鎌倉時代は、彫刻....