文永[語句情報] »
文永
「文永〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
文永の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「魔法修行者」より 著者:幸田露伴
て、まだしゃれ頭にならない生頭を取られたというのである。して見ればこの人の薨去は
文永四年で北条|時宗執権の頃であるから、その時分「げほう」と称する者があって、げ....
「運命」より 著者:幸田露伴
り、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試に看よ建
文永楽の事を。 我が古小説家の雄を曲亭主人馬琴と為す。馬琴の作るところ、長篇四....
「旗本退屈男」より 著者:佐々木味津三
けた気の強さ! 無理もない、聖日蓮が波木井郷の豪族、波木井実長の勧請もだし難く、
文永十一年この一廓に大法華の教旗をひるがえしてこのかた、弘法済世の法燈連綿として....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
というところがある、そこに望月という郷士の家がある、これは徳川家以前の旧家で、天
文永禄《てんぶんえいろく》あたりから知られている家柄だ、そこの家でいま婚礼がある....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
えているのですもの、風景の好きなあなたが、それを好きになれないはずはありません。
文永の昔、胆吹の弥三郎という山賊がこの山の頂上に腰をかけて、琵琶湖の水で足を洗い....
「学生と先哲」より 著者:倉田百三
門の故に怨まれて死せんこと決定也。今一度故郷へ下つて親しき人々をも見ばやと思ひ、
文永元年十月三日に安房国へ下つて三十余日也。(波木井御書)」 折しも母は大病で....
「痀女抄録」より 著者:矢田津世子
。 繍帳はもと法隆寺の宝蔵の奥ふかく納まわれてあったが、のち、中宮寺にうつされ
文永年間信如尼によって修補が行われた。当時すでに繍糸の落脱したところもあって亀甲....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
の筋の力によって撰者の中に加えられた。家良が途中で世を去ったので、四人の共撰で、
文永二年十二月二十六日に奏覧した。『続古今和歌集』がこれである。 為家の反対派....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
のくようなり 施主 英田むら きん作が母 所々、風化して、読めない所もある。天
文永禄の頃といえば、ばばにも古い憶い出しかない。 その頃、この近郷一帯の、英田....
「随筆 新平家」より 著者:吉川英治
で育てられ、左兵衛義高となって、後に、岩手県|閉伊郡|田鎖の領主となった。そして
文永四年の八十二歳まで生き、歿年から逆算すると、生まれ年は、ちょうど、文治二年静....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
野信之助君、同県史蹟調査委員たる上田三平君の報告によると、このほかにも若狭には、
文永二年の若狭大田文にある細工保というのが、二箇所まで特殊部落となっているらしい....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
ある。自分の寡聞なる、未だその以外に何らの史料のあることを知らないのである。彼は
文永八年十月佐渡流罪の折に、円浄房へ遣わしたという「佐渡御勘鈔」において、 が子....
「放免考」より 著者:喜田貞吉
ばならぬ。 鎌倉時代に至っても、相変らず盛んに付物を用いたことは、前号挿入の「
文永賀茂祭絵巻」の放免に見るが如きもので、図に示したものは大きな牡丹の造花を付け....
「濫僧考補遺」より 著者:喜田貞吉
云ってあるのは面白い。橋川正君によって学界に紹介せられた「感身覚正記」によると、
文永六年に西大寺の叡尊(興正菩薩)は、この北山に非人供養の施場を設けた。同年の条....