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明和
「明和〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
明和の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「「いき」の構造」より 著者:九鬼周造
横縞や、「取染《とりぞめ》」の横筋はいずれも宝暦前の趣味である。しかるに、宝暦、
明和《めいわ》ごろから縦縞が流行し出して、文化文政には縦縞のみが専ら用いられるよ....
「籠釣瓶」より 著者:岡本綺堂
門と八橋との菩提を弔うために出家したともいい、ある町家の入り婿になって七十余歳で
明和の末年まで生きていたとも伝えられている。お光のことは猶わからない。 治六が....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
に例の碁盤も一緒に添えて、その寺へ納めたのだそうですが、それから百年ほど経って、
明和五年四月六日の大火で、よし原廓内は全焼、その近所もだいぶ焼けました。猫を葬っ....
「義民甚兵衛」より 著者:菊池寛
るんじゃてのう。 甚作 御年貢米の代りに、人間の乾干しを収めるとええぞ。 およし
明和の飢饉じゃて、これほどではなかったのう。 甚作 あの時には、お救い小屋が立っ....
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
考証はしばらく措いて、目黒行人坂の名が江戸人にあまねく知られるようになったのは、
明和年間の大火、いわゆる行人坂の火事以来である。 行人坂の大円寺に、通称|長五....
「一枚絵の女」より 著者:国枝史郎
の夜の、家の軒へ蚊柱の立つ時刻に、千住の宿を出外れた。 三十郎は満足であった。
明和年間の代表的美人、春信によって一枚絵に描かれ、江戸市民讃仰のまとになったとこ....
「十二神貝十郎手柄話」より 著者:国枝史郎
なかった。 (お喋舌り貝十郎が始まったぞ) 後世までも十二神貝十郎は、宝暦から
明和安永へかけての名与力として謳われて、曲淵甲斐守や依田和泉守や牧野大隅守という....
「赤格子九郎右衛門の娘」より 著者:国枝史郎
いればこそこの物語を書きつづることが出来るのである。 寛延二年から十五年を経た
明和元年のことであったが、摂州萩の茶屋の松林に正月三日の夕陽が薄黄色く射していた....
「娘煙術師」より 著者:国枝史郎
方角から提灯の火が、点々とこちらへ近寄って来た。
こういう事件の起こったのは、
明和六年の晩春初夏の、ようやく初夜へはいったころのことで、所は下谷の車坂から、根....
「おせん」より 著者:邦枝完二
。ぽつんと一|本咲き初めた、桔梗の花のそれにも増して、露は紅より濃やかであった。
明和戌年秋八|月、そよ吹きわたるゆうべの風に、静かに揺れる尾花の波路。娘の手から....
「乳を刺す」より 著者:邦枝完二
付けて、その下へ灯ろうを掲げてあることとて、さながら群がる星のように美しかった。
明和、寛政のころまでは、江戸の民衆は、急にこぞって家毎に高灯ろうをつるして、仏を....
「雪柳」より 著者:泉鏡花
が、半紙|綴八十枚ばかりの写本、題して「近世怪談録」という。勿論江戸時代、寛政、
明和の頃に、見もし聞きもした不思議な話を筆写したものでありますが、伝写がかさなっ....
「目黒の寺」より 著者:岡本綺堂
考証はしばらく措いて、目黒行人坂の名が江戸人にあまねく知られるようになったのは、
明和年間の大火、いわゆる行人坂の火事以来である。 行人坂の大円寺に、通称長五郎....
「春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
のままだという。秋元家は譜代の大名として、たびたび転封の経験を有し、この山形では
明和四年に武州川越から移ってより、弘化二年上州館林に転じて、水野越前守と入れ交る....
「雷門以北」より 著者:久保田万太郎
ているのも見逃し難い…… 左手の玉垣の中に石の井戸がある。なかば土にうもれて、
明和七年ときざまれたのがよめる…… 金山三宝大荒神、――それに隣った墨色判断、....