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「明応〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

明応の前後の文節・文章を表示しています。該当する12件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
法窓夜話」より 著者:穂積陳重
この準拠なる成語は、「延喜式」の序にも見えて「準二拠開元永徽式例一」とあり、また明応四年八月の「大内家壁書」の中に用いられているものであるが、これより先、我輩が....
雪たたき」より 著者:幸田露伴
骨や爪の根に漲らせることを忘れぬであろう。 応仁、文明、長享、延徳を歴て、今は明応の二年十二月の初である。此頃は上は大将軍や管領から、下は庶民に至るまで、哀れ....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
相模、陸奥、甲斐に、宝徳元年四月には山城、大和に、文正元年四月には山城、大和に、明応三年五月にはやはり大和、山城に大地震があったが、明応三年五月の地震は大和が最....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
れたとあります。医師となって長享元年に明国《みんこく》に入り、留まること十二年、明応七年に三十四歳で帰朝して、明の医術を伝えて、その名声天下にあまねく、総、毛、....
東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
らに回を重ねてこれを説こう。 先ず実隆の住宅からして説き起そう。『実隆公記』の明応七年五月十八日の条に、中山家の雑色《ぞうしき》が黄昏《たそがれ》ごろ武者小路....
剣侠」より 著者:国枝史郎
「大丈夫だ。ボツボツ歩ける」 陣十郎は先に立って、森の方へ歩いて行った。 4明応年間に木曽義元、小笠原氏と戦って、戦い勝利を得たるをもって、華表を建てて鳥居....
埋もれた日本」より 著者:和辻哲郎
を示したのは、延徳三年(一四九一)すなわち加賀の一向一揆の三年後であった。やがて明応四年(一四九五)には小田原城を、永正十五年(一五一八)には相模一国を征服した....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
いて口伝をした。これが古今伝授のはじまりである。その後、摂関将軍家に出入したが、明応三年九十四歳を以て世を去った。『東野州聞書』『東野州消息』『東野州家集』『東....
宮本武蔵」より 著者:吉川英治
す。――氏経様は、その中を、時の権力や貧苦とたたかい、諸人を説きあるいて、やっと明応の六年ころ、仮宮の御遷宮をすることができたというのです。――ずいぶん呆れるじ....
随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
い。 また、その城下から遠くない所に、下庄という一村があった。 室町末期の、明応から文亀年間の頃、平田|将監という者が、下庄村に住んでいた。そして、竹山城主....
山の人生」より 著者:柳田国男
のごとく、気遣っていた人々の部落の中であった。 鬼子の最も怖ろしい例としては、明応七年の昔、京の東山の獅子が谷という村の話が、『奇異雑談集』の中に詳しく報ぜら....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
内と同一か、少くとも鳩垣内が中尾の中のものらしく想像せられるのである。さらに同書明応三年六月十二日条に、 之者、知院事等差遣之条勿論也。 とあるのをみると、鳩....