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「正元〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

正元の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
上高地風景保護論」より 著者:小島烏水
、一日に九十人位を泊めることがあったそうである、現に我参謀本部の陸地測量部が、大正元年測量したばかりの槍ヶ岳焼岳二図幅(五万分一図)を、翌年製図発行したことなど....
姉川合戦」より 著者:菊池寛
事は信長にしても考えたのだろう。元亀は三年で天正と改元した。朝倉が亡んだのは、天正元年の八月で、浅井が亡んだのは其の翌月の九月であった。その三年間浅井朝倉が聯合....
支倉事件」より 著者:甲賀三郎
う事が判明して来る。 問 証人は小林貞子とは如何なる知合であったか。 答 大正元年中貞子が上京した時より知って居ります。其父は前に私方より学校へ通学し、その....
千曲川のスケッチ」より 著者:島崎藤村
く地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。 大正元年 冬 藤村 その一 学生の家 地久節には、私は二三の同僚....
みみずのたはこと」より 著者:徳冨健次郎
、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。 大正元年十二月二十九日 都も鄙も押なべて白妙を被る風雪の夕 武蔵野粕谷の里にて ....
斗南先生」より 著者:中島敦
支那民族性への洞察から、我が国民の彼に対する買被《かいかぶ》り的同情(この書は大正元年十月刊行。従ってその執筆は民国革命進行中だったことを想起せねばならぬ)を嗤....
黒猫」より 著者:島木健作
オヤマネコの話、というのが強く私の空想を刺戟した。樺太の大山猫は明治四十一年、大正元年、昭和五年、の三度捕獲されたが、それ以後は絶滅したものと思われていた。それ....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
吹いて、余震は月を越えた。そしてその翌年の八月に大風があり、三年に大飢饉があり、正元に入ってから二年続けて疫病があったので、日本全国の同胞は大半死につくしたよう....
学生と先哲」より 著者:倉田百三
一帯には天変地妖しきりに起こり出した。正嘉元年大地震。同二年大風。同三年大飢饉。正元元年より二年にかけては大疫病流行し、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超え....
泉鏡花先生のこと」より 著者:小村雪岱
に行かれなくなりました。 御著書の装幀は、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでしたが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装幀で....
叔父と甥と」より 著者:岡本綺堂
ゆ。 払へども落葉の雨や袖の上 二十六日、今夜も眠られず。臥しながら思うに、大正元年の秋、英一がまだ十歳なりける時、大西一外君に誘われて我と共に雑司ヶ|谷の鬼....
サンカ者名義考」より 著者:喜田貞吉
の坂の者という名も、必ずしも京の五条坂の部族のみに限った訳ではない。蔭涼軒日録文正元年二月八日条には、有馬温泉場の坂の者の名も見え、大乗院寺社雑事記には応仁・文....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
の七人が百首を詠んだので『七玉集』といわれている。ところでこれより足かけ三年前、正元元年に、為家は二度後嵯峨院の院宣によって撰集すべき旨を承っていたが、弘長二年....
学究生活五十年」より 著者:津田左右吉
興味の中心がむしろそちらに移ったからでもある。 満鉄における満鮮史の研究は、大正元年だか二年だかに、会社の事情でうちきりとなり、東京帝大の文学部の名で研究報告....
俗臭」より 著者:織田作之助
利貸の手代、まつ枝、たみ子は女中奉公、いってみればそれ/″\に苦難の道だった。大正元年のことだ。翌年まつ枝は好いた男と結婚したが、きょうだいは散り/\ばら/″\....