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正徳
「正徳〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
正徳の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
香川県観音寺海軍航空基地気付 ウ三三八士官室 永田朝子殿(娘) 永田
正徳殿(婿ノ父) 鹿見島市天保山町五八 岡東 浩殿 麻布区本村町二六 ....
「骨董」より 著者:幸田露伴
った楊文襄、文太史、祝京兆、唐解元、李西涯等と朋友で、七峯のいたところの南山で、
正徳十五年七峯が蘭亭の古のように修禊の会をした時は、唐六如が図をつくり、兼ねて長....
「運命」より 著者:幸田露伴
ぬ。御代しろしめすことは正しく五歳にわたりたもう。然るに廟諡を得たもうこと無く、
正徳、万暦、崇禎の間、事しば/\議せられて、而も遂に行われず、明亡び、清起りて、....
「梟雄」より 著者:坂口安吾
「信長のバカぶりを見てやろう」 道三は人々にそう云った。 会見の場所は富田の
正徳寺であった。正式の会見だから、いずれも第一公式の供廻りをひきつれて出かける。....
「織田信長」より 著者:坂口安吾
して、なぶってやろう、と、色男の悪党ジジイがニヤニヤ思いついて、何月何日、富田の
正徳寺で会見致そうと使者をたてた。 そのとき、信長、十九である。聟をだましてヒ....
「怪しの者」より 著者:国枝史郎
一 乞食の権七が物語った。 尾張の国春日井郡、庄内川の岸の、草の中に寝ていたのは、
正徳三年六月十日の、午後のことでありました。いくらか靄を含んでいて、白っぽく見え....
「八犬伝談余」より 著者:内田魯庵
』に馬琴を出藍の才子と称し、「読本といふもの、天和の西鶴に起り、自笑・其磧、宝永
正徳に鳴りしが馬琴には三舎すべし」と、京伝側を代表する京山が、これもまた案外公平....
「オシラ神に関する二三の臆説」より 著者:喜田貞吉
シラ神の起原と名称とについて定説がないと同様に、これまでほとんど確かな説がない。
正徳の和漢三才図会には、「凡そ物の大なる者を馬と云ひ、小なる者を雛といふ。此の戯....
「エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
元禄十二年に服装その他百姓に準じてなお軽くせよと令した徳島藩でも、その後十四年の
正徳三年に至っては、エタの身居棟付帳・宗門帳は町人・百姓のと別帳に仕上げさせる様....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
正確な数を知る事は出来ませぬが、少くとも京都付近では、非人の方が非常に多かった。
正徳五年(今より二百四年前)の調べに、洛外の非人の数八千五百六人に対して、穢多の....
「特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
して明治以来の事ではない。「京都御役所向大概覚書」によるに、今を距る二百四年前の
正徳五年調査の「洛外穢多家数人数の事」という条に、 百八十八軒 七百八....
「特殊部落と細民部落・密集部落」より 著者:喜田貞吉
の耕地を余さなくなっているのが常である。京都川崎村すなわち今の田中の部落の如き、
正徳五年の調べに戸数僅かに四十七軒で、斬罪、牢番の公務、皮革・下足の独占事業以外....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
合には、往々「エタの水上」なる京都へ来て、エタの仕来りを問い合せているのである。
正徳二年七月に、備後地方のエタと茶筅との間に於いて、支配権限の争いが起った。そこ....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
がエタの種類であると云うことは、京都などでは余程後までも云っていた事で、徳川時代
正徳の頃までも、藍染屋は役人村と云われたエタ部落の人々とともに、二条城の掃除や、....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
、柳田君も引いておかれた。多くの場合において普通民は彼らをエタの類といっていた。
正徳二年には、備後の茶筅とエタとの間に上下の争いがあって、エタの勝利に帰した例さ....