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津軽
「津軽〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
津軽の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「小さき者へ」より 著者:有島武郎
の顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残《なご》りを惜しんだ。陰鬱な
津軽海峡の海の色も後ろになった。東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの....
「初めて見たる小樽」より 著者:石川啄木
したであろう。彼らは皆その住み慣れた祖先|墳墓《ふんぼ》の地を捨てて、勇ましくも
津軽の海の速潮を乗りきった。 予もまた今年の五月の初め、漂然《ひょうぜん》とし....
「生まれいずる悩み」より 著者:有島武郎
をになって、無理にも春をよび覚ますような売り声を立てる季節にはなったろう。浜には
津軽や秋田へんから集まって来た旅雁のような漁夫たちが、鰊の建網の修繕をしたり、大....
「空襲葬送曲」より 著者:海野十三
「次に、アラスカ飛行聯隊は、午後十時、北海道、根室湾を、占領した。聯隊は、更に、
津軽海峡を征服し、青森県|大湊要港を占拠せんものと、機会を窺っている模様である」....
「三浦老人昔話」より 著者:岡本綺堂
一つ提灯、狸ばやし、足洗い屋敷ぐらいのもので、ほかの二つは頗る曖昧です。ある人は
津軽家の太鼓、消えずの行燈だとも云いますし、ある書物には
津軽家の太鼓を省いて、松....
「七宝の柱」より 著者:泉鏡花
」 車夫の言葉に、私は一度|俥を下りた。 帰途は――今度は高館を左に仰いで、
津軽青森まで、遠く続くという、まばらに寂しい松並木の、旧街道を通ったのである。 ....
「火の扉」より 著者:岸田国士
んで座にもどつた時、彼女は、北原ミユキをこのうえ悲しませてはならぬと心に誓つた。
津軽海峡の連絡船はもう三日欠航をつゞけていた。 青森駅からさんなものに思われた....
「可能性の文学」より 著者:織田作之助
小説を書いていると、女が気味悪がって、口説いてもシュッパイするのは当り前だよ、と
津軽言葉で言った。私はことごとく同感で、それより少し前、雨の中をルパンへ急ぐ途中....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
次第であった。当時いわゆる六郡以北の地方、すなわち今の二戸・九戸の諸郡から、北、
津軽の地方へかけては、いわゆる奥地として安倍氏にも属せず、むろん化外に置かれたも....
「「ケット」と「マット」」より 著者:喜田貞吉
陬海岸地方には、なお蝦夷と呼ばれ、アイノと差別された部落が各地に取り遺され、その
津軽領内において藩庁より最後の差別撤廃を命ぜられたのは、実に近く文化三年の事であ....
「奥羽地方のシシ踊りと鹿供養」より 著者:喜田貞吉
ものであったが為に、自然供養の対象としてそれが選ばれたものであろうと解せられる。
津軽浅瀬石川の上流地方には、岩面に鹿の頭を刻したものの存在することを黒石の佐藤耕....
「国号の由来」より 著者:喜田貞吉
上表の文にも、奥州のことを「日出之崖」とある。鎌倉時代から室町時代にかけて、奥州
津軽地方を占領し、北方に雄視した安東氏が日の本将軍と呼ばれたのも、また奥州すなわ....
「春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
・渟代(能代)の辺はすでに、斉明天皇朝に阿倍比羅夫の遠征によって郡が置かれ、当時
津軽の辺にまで、内地化したる熟蝦夷がいたほどであった。しかるにこの山間の仙北地方....
「「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
たと信ずるものである。斉明天皇の御代に阿倍比羅夫が征伐した粛慎や、養老年間に渡島
津軽津の司諸君鞍男が調査に行った靺鞨というものは、このオロッコ族であったと解して....
「本所両国」より 著者:芥川竜之介
根の商店は軒を並べていたのに違いない。しかし広い「お竹倉」をはじめ、「伊達様」「
津軽様」などという大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけていた。…....