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無声映画
「無声映画〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
無声映画の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「映画時代」より 著者:寺田寅彦
《ぶそん》のごときがそれである。彼らを昭和年代の今日に地下より呼び返してそれぞれ
無声映画ならびに発声映画の脚色監督の任に当たらしめたならばどうであろう。おそらく....
「縮図」より 著者:徳田秋声
と、一層|故意とらしく、いつも同じような型の会話だけの芝居が、かつての動作だけの
無声映画と同じく、ひどく厭味なものに聞こえた。 加世子も毎晩このラジオには悩ま....
「仮装人物」より 著者:徳田秋声
彼は口も利かないようにしていた。「闇の光」、「復活」などもそこで彼女と一緒に見た
無声映画であった。それに翻訳物も彼女はかなり読んでいて、話上手な薄い唇から、彼女....
「思想と風俗」より 著者:戸坂潤
る。トーキーになってから映画が俄然面白くなったわけではなく、面白みの基調はすでに
無声映画時代からあったのだ。 尤も視覚型の人と聴覚型の人との区別はあるが、併し....
「映画雑感(Ⅰ)」より 著者:寺田寅彦
果を強めたりするのも、これらも決しておもしろくないことはない。これらは発声映画と
無声映画との特長をそれぞれ充分に把握した上で、巧みに臨機にそれを調合配剤している....
「生ける人形」より 著者:寺田寅彦
んの期待をかけてもはなはだしい見当ちがいではないかと思われる。実際チャップリンの
無声映画に現われる一つのタイプとしてのチャーリーは、あれはたしかに一つの人形であ....
「映画芸術」より 著者:寺田寅彦
ておく必要のあるのは、発声映画の問題である。始めから発声映画を取って考えるのと、
無声映画時代というものを経て来た後に現われた発声映画を考えるのとでは、考え方によ....
「映画雑感(Ⅳ)」より 著者:寺田寅彦
の火祭りの光景を写したものの中に祭礼の太鼓をたたく場面がある。そのとき、もちろん
無声映画であるのにかかわらず、不思議なことには、画面に写し出された太鼓のばちの打....
「洪水大陸を呑む」より 著者:海野十三
代の人々がしゃべっている声が、十分に再生できないんだ」 「じゃあ、トーキではない
無声映画というのがありますね。あれみたいなものですか」 「全然無声というわけでも....
「耳と目」より 著者:寺田寅彦
はある程度までは生理的効果でだれにでも共通なものである。この現象はトーキーでなく
無声映画でも利用されうるであろうが、しかしトーキーだといっそう有効に応用されうる....
「“歌笑”文化」より 著者:坂口安吾
落語界の新型であったころ、芸界では、もっとケタ違いに花々しい流行児があり、それが
無声映画であり、活弁であった。今の徳川夢声と生駒雷遊が人気の両横綱で、群をぬいて....
「映画と民族性」より 著者:伊丹万作
と考えている。 今にして思えばアメリカ映画が最もその国際性を発揮したのはやはり
無声映画の末期であり、ちよびひげをつけ、山高帽をかぶり、だぶだぶのズボンをはいた....
「雑文的雑文」より 著者:伊丹万作
つているわけである。しかるに日本にはトーキー俳優というものはまだいない。ほとんど
無声映画時代の俳優をそのまま使つているのである。その中にはトーキーに適している人....