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田部
「田部〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
田部の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「寒の夜晴れ」より 著者:大阪圭吉
上って動こうとしなくなった。それで私は、ここから程遠くない同じ女学校の物理教師の
田部井氏の家まで、彼女を求援に走らした。そして流石に固くなりながら、思切って三四....
「単独行」より 著者:加藤文太郎
を引いていて僕が薬を上げたが、いつもより元気が無かったようです。明るくなってから
田部氏と福松君の他は一人ずつスキーの練習に出かけました。小屋より二町ほど西で小さ....
「死者の書」より 著者:折口信夫
な事は、どうでも――。まず、郎女さまを――。 噛みつくようにあせって居る家長老額
田部子古のがなり声がした。 同時に、表戸は引き剥がされ、其に隣った、幾つかの竪薦....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
皇 天武天皇が藤原夫人に賜わった御製である。藤原夫人は鎌足の女、五百重娘で、新
田部皇子の御母、大原大刀自ともいわれた方である。夫人は後宮に仕える職の名で、妃に....
「越中劍岳先登記」より 著者:柴崎芳太郎
も手を著け得ざるものとして、愛山家の間に功名の目標となれるが如き感ありしに、会員
田部隆次氏は、「劍山|登攀冒険談」なる、昨四十年七月末『富山日報』に出でたる切抜....
「「ケット」と「マット」」より 著者:喜田貞吉
、その名義はすなわちヒナ(夷)であり、所謂夷守はこれに対して設置された守備兵の屯
田部落であったのであろう。そしてそのヒダ人も、いつしか日本民族化して日本風の竪穴....
「法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
な事から、遂にこの伝統的特異なる伽藍配置をなすに至ったものであろうと思われる。新
田部親王の邸宅を捨して戒壇となし、それより後漸次他の堂塔を造営した唐招提寺におい....
「チベット旅行記」より 著者:河口慧海
たから、ここに此堂を見た因縁でその奇怪なるお話をいたしましょう。元来チベットの耕
田部では霰を一番恐れて居るのである。特に夏の間に霰が降りますと一年一季あるいは二....
「古事記」より 著者:太安万侶
子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都《むげつ》の君等の祖先です。この御世に
田部をお定めになり、また東國の安房の水門《みなと》をお定めになり、また膳《かしわ....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
国語で、人民のことを「たみ」というのも同じ意味でありまして、「たみ」はすなわち「
田部」の義でありましょう。昔はそれぞれに職業に依って団体をなし、それを「部」と申....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
転化で、原則としては百姓すなわち農民であったのである。また「タミ」の語は、本来「
田部」であったと解せられる。余戸を後世時に余目に訛り、「
田部井」と書いてタメガイ....
「融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
ばかりでなく、御自身にも直属の土地人民を御所有になりました。その土地を耕す農民を
田部とも、オオミタカラとも申しました。
田部とは田を耕作する仲間ということで、それ....
「釜沢行」より 著者:木暮理太郎
榴の花をぼんやり見詰めながらそんなことを考えていた。そこへ折よくも訪れて来たのは
田部君である。同君も矢張五月の秩父の旅で受けた深い印象を忘れ兼ねたのであろう。頻....
「黒部川奥の山旅」より 著者:木暮理太郎
ので、未完のまま茲に収め、其後の行程を附記して単に欠けたるを補うことにした。尚お
田部重治君著『山と渓谷』所収「毛勝山より劒岳まで」及「劒岳より赤牛、黒岳を経て大....
「春の大方山」より 著者:木暮理太郎
の四湖を眺め、青木ヶ原の一端をものぞいて見ようというので、四月八日の午後十一時に
田部君と共に東京駅を出発した。四方に美しく発達した裾野の中でも、特に西側の景色が....