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皇太子
「皇太子〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
皇太子の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「自叙伝」より 著者:大杉栄
中将とかが中にはいって、無理にもらわしてしまったのだのとかと聞いた。その後、今の
皇太子や皇子達が川村大将の家にいた頃、良さんの子供等はよくそこへ遊びに行って、熊....
「聖アレキセイ寺院の惨劇」より 著者:小栗虫太郎
――一九二〇年十月極東白衛軍の総帥アタマン・アブラモーフ将軍が、ロマノフ朝最後の
皇太子に永遠の記憶を捧げたものが、このとてつもない阿呆宮だった。そして、一九二二....
「反戦文学論」より 著者:黒島伝治
であった。だから作品の中には、抽象的な観念ばかりが出ている。それが、大戦にドイツ
皇太子の副官として出征した。そこで彼は戦争の惨禍を見た。それが彼の観念を大きく、....
「運命」より 著者:幸田露伴
べしと。之に従う。 建文帝の皇考興宗孝康皇帝の廟号を去り、旧の諡に仍りて、懿文
皇太子と号し、建文帝の弟|呉王允※を敷恵王となし、尋で復庶人と為ししが、諸王|後....
「夢殿」より 著者:楠山正雄
ございます。 第三十一|代の天子さまを用明天皇と申し上げました。この天皇がまだ
皇太子でおいでになった時分、お妃の穴太部の真人の皇女という方が、ある晩御覧になっ....
「赤格子九郎右衛門」より 著者:国枝史郎
で彼は少年へ話しかけた。 その結果彼の知ったことは、その少年こそ柬埔寨国の
皇太子であるということや、其柬埔寨国に恐ろしい革命が起こったということや、その結....
「反省の文学源氏物語」より 著者:折口信夫
に養子が二人ある。一人は秋好中宮と言って、六条御息所と、その夫、早く亡った先帝の
皇太子との間の子である。六条御息所は
皇太子の死後、十分な門地財産を持って六条に住....
「あゝ二十年」より 著者:上村松園
めて出品いたしまして、一等褒状を受け、しかもそれが当時御来朝中であらせられた英国
皇太子コンノート殿下の御買上げを得た時のことを思い合わせまして、今度皇太后陛下に....
「最初の出品画」より 著者:上村松園
分当時はまだ十六歳の小娘でしたから思いもかけなかったのであろう。 当時さる国の
皇太子殿下がちょうど日本に来ておられ、博覧会場におなりになり、はしなくも私の拙な....
「奥羽地方のシシ踊りと鹿供養」より 著者:喜田貞吉
踊がある。ここ百年来一時中絶して、古式を失っていたのを、大正十一年今上陛下のまだ
皇太子殿下にましました際、この地に行啓あり、当時同地出身のお歴々の斡旋で、古式を....
「道鏡皇胤論について」より 著者:喜田貞吉
ではない。また皇族であったからとて不軌を図ったものはやはり謀反を以て論ぜられる。
皇太子の如きお身分のお方であってすら、時到らぬに天位を望んだという点でその位から....
「チベット旅行記」より 著者:河口慧海
明治三十一年の一月一日には例年のごとく祝聖の儀式を挙げ、天皇皇后両陛下及び
皇太子殿下の万歳を祝するため読経致しそれから一首の歌を詠みました。
ヒマラヤに....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
に二流が分立することとなった。後嵯峨院は亀山天皇を愛される余り、さらにその皇子を
皇太子に立てられた。後深草院はこれにはさすが御不満で、父院の崩御の後、自ら院政を....
「古事記」より 著者:太安万侶
原《きよみはら》の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず
皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しません....
「フレップ・トリップ」より 著者:北原白秋
どなった。 「皇后陛下万歳ぁい。」 「万歳ぁい。」 「摂政宮殿下万歳ぁい。」 「
皇太子殿下万歳ぁい。」 「万歳ぁい。」 そこで、また、 「羊の蒸肉万歳ぁい。」....