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「相模入道〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

相模入道の前後の文節・文章を表示しています。該当する8件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
筋から九州へかけての旅行もやった。特になじみが深かったのは越後である。これは上杉相模入道の子息なる民部大輔といえる者、仁慈博愛の武士であって、宗祇は特にその引立....
私本太平記」より 著者:吉川英治
もっとも数年後には、本格に得度をうけて、それ以後は法名|崇鑑を名のり、また世上、相模入道どのとも称されたが、まだその頃は、伊吹の道誉とおなじように、青い剃り頭も....
私本太平記」より 著者:吉川英治
罷め、従来も剃髪ではあったが、あらためて法名“崇鑑”と称える、と公に沙汰された。相模入道崇鑑 の彼。その高時は、いよいよ公にも病閑をえて、遊び呆うけられるわけ....
私本太平記」より 著者:吉川英治
一等を減じられていた。 古典太平記によると、減刑の理由は、こうだとされている。相模入道高時の夢に、数千の猿が、比叡のお使い猿として現われた。そこで高時は、これ....
私本太平記」より 著者:吉川英治
、欲望の園であり、じぶんは花に飽かない虻の大王だと思っている。 鎌倉の前執権、相模入道高時は、あの小児病とも瘋癲ともつかない物狂いで、職はすでに退いていたはず....
私本太平記」より 著者:吉川英治
はまた、鎌倉の秋風と共に、いよいよ多事多端な柳営の中で、誰よりもお覚えめでたく、相模入道高時のそばには、なくてはならぬ人間みたいになっていた。....
私本太平記」より 著者:吉川英治
澗の間 と称されている。 北びさしの冷んやりと陽に遠い夏向きな用部屋だった。相模入道(高時)どのに召されて、ここへ通されたときは、おおむね長時間待たされて、....
私本太平記」より 著者:吉川英治
てきた彼だった。 だからこの金沢ノ老大夫には、ことし三十一歳となった人の恐れる相模入道高時も、まだ子供みたいな、言ってみるなら天真らんまん、幼いままなお人とし....