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等持院
「等持院〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
等持院の前後の文節・文章を表示しています。該当する8件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
詰めたようにも聞こえた。 同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人であるが、
等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って、二十三日の夜にそ....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
や汗の出るところだ。過ぐる文久三年の二月、同門の師岡正胤ら八人のものと共に、彼が
等持院にある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って、幕府への見せしめのため晒....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
きましたかい。」 と言いながら、正香はその扇面に見入った。過ぐる文久三年、例の
等持院にある足利将軍らの木像の首を抜き取って京都三条|河原に晒し物にした血気さか....
「艸木虫魚」より 著者:薄田泣菫
ゆき、心はいつのまにか気力と新鮮さとを取り返している。 むかし、足利尊氏は洛西
等持院の境内にあった一本の松をこの上もなく愛していた。それはほととぎすの松といっ....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
、こういうたちのいたずらが、よく流行したもので、その最も代表的なるものは、京都の
等持院の足利家累代の木像を取り出して、四条磧《しじょうがわら》にさらしたことであ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
ぬ わがおもひかな 尊氏の歌である。 彼が三草越えの途で詠んだ歌として歌集「
等持院殿(
等持院は尊氏の院号)百首」のうちに載っている一つである。おもうに三草の....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
た。 彼は、後醍醐のために、七々(四十九日)の忌に服し、さらにその百ヵ日には、
等持院へのぞんで、盛大な仏事をいとなんだ。そして、満堂の参列者のなかで「――先帝....
「随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
定尼 ずいぶん長い法名だが、すでに征夷大将軍尊氏の母であり、尊氏の手で天龍寺や
等持院も創建されていた。おそらく都の葬式は盛儀を極めたものだったろう。 ほかに....