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「管見〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

管見の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
読書法」より 著者:戸坂潤
葉も、もはや前の二つの場合の例のような、健全な科学性を有っていない。ここに「深い管見」とでも云うべき、局処的真理のもつ虚偽、というものに、私は思いあたるのである....
科学と文学」より 著者:寺田寅彦
たことをなんの苦もなく書き流したところなのである。 この所説もはなはだ半面的な管見をやや誇張したようなきらいはあろうが、おのずから多少の真を含むかと思うのであ....
俳諧の本質的概論」より 著者:寺田寅彦
いう意識を心頭に置き、そうしてその上に立って蕉門俳諧そのものの本質に関する若干の管見を述べるよりほかに現在の自分の取るべき道はないのである。 俳諧はわが国の文....
藤棚の陰から」より 著者:寺田寅彦
ともな議論ではあろうが、ただの科学者から見るとごくごく狭い自分勝手な視角から見た管見的科学論としか思われない。 科学者の科学研究欲には理屈を超越した本能的なも....
辞典」より 著者:戸坂潤
則的に否定しなければならぬと考えさせるものは、科学至上主義となって現われる一種の管見的「哲学」の影響に過ぎないのであって、それ自身、自然科学論の社会階級性の最善....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
得る能わず。したがって余は今なおこれをもって同じく蝦夷の族なりと信ずるなり。その管見の主意は、「夷俘・俘囚の考」中の「蝦夷と佐伯部」、および『国学院雑誌』第二十....
江戸芸術論」より 著者:永井荷風
絵《うきえ》(名所遠景)の中《うち》時に賞すべきものあるを見ゆ。国丸の作にて余の管見に入りしもの国貞が文化中の美人画に類するもののみ。国直に至りては歌川派中余の....
奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
余輩は前号において征夷大将軍の名義について管見を披瀝し、平安朝において久しく補任の中絶しておったこの軍職が、源頼朝によって....
くぐつ名義考」より 著者:喜田貞吉
義もおなじからぬにや。 草をもて作れる物故、さる名のあ※なるにや。 とあるを管見に入るの初めとする。これより先文化二年の谷川士清の倭訓栞にも、くぐつというと....
国栖の名義」より 著者:喜田貞吉
問題であるから、名義そのものは一向つまらなくとも、他日の発表の予備として、ここに管見を吐露して博識諸賢の叱正を希望する。....
長吏名称考」より 著者:喜田貞吉
云、真言・三論両度者被畢云云。 などある。 賤者に対してこの称の見えるのは、管見の及ぶ限りでは鎌倉時代寛元二年三月の、奈良坂・清水坂両所の非人争議の文書であ....
獅子舞雑考」より 著者:中山太郎
話に言う枯れ木も山の賑やかしとやら、笑われるのもまた学問のためと観念して、ここに管見を記して高叱を仰ぐとする。 二、獅子舞に関する先輩の研究 私は管見を述べる....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
る由来を有するか、いかなる意義を有するかについては、別項「エタ名義考」中に於いて管見を述べておいた。よしやその意義がいかにもあれ、「穢多」という文字は「エタ」の....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
ることではあろうが、それを拝聴するの機会を有せざる今日において、その傍らに自己の管見を発表する余地を求めるのも、研究上、またやむをえない次第である。似たような種....
濫僧考」より 著者:喜田貞吉
してあるのは、当時世間が両者を通じて呼んでいた証拠である。この後濫僧の語はいまだ管見に入らぬ。しかし地方の俗諺にはまだ久しく遺っていたものとみえて、自分らの子供....