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紀伊
「紀伊〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
紀伊の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「長篠合戦」より 著者:菊池寛
貞次三尺三寸の陣刀をふりかぶりふりかぶり、同じ所で討死した。土屋右衛門尉も、池田
紀伊守、蒲生忠三郎の備えを横合から突崩した。側の一条右衛門大夫信就に向って云うに....
「賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
若武者で、真先に進んで忽ち五人まで突落したとある。この青木は後に越前に在って青木
紀伊守|一矩に仕えたが、ある時同じ家中の荻野河内の館で、寄合いがあった際、人々に....
「真田幸村」より 著者:菊池寛
の荷物をつけ、百人ばかりの同勢にて、槍、なぎ刀の鞘をはずし、鉄砲には火縄をつけ、
紀伊川を渡り、大阪をさして出発した。附近の百姓ども、あれよあれよと騒いだが、村々....
「応仁の乱」より 著者:菊池寛
す可きは賊軍の悪名を受けた西軍が南朝の後裔を戴いたことである。日尊と称する方で、
紀伊に兵を挙げられた。『大乗院寺社雑事記』文明三年の条に、 「此一両年日尊と号し....
「四条畷の戦」より 著者:菊池寛
でもなく、正行の率いる楠党であった。 八月十日、正行は和泉の和田氏等の軍を以て
紀伊に入り、隅田城を急襲して居る。これは東条と吉野との連絡を確実にする為であって....
「少年探偵長」より 著者:海野十三
した。 いかにもそれは、世にも見事な眺めであった。東を見れば、大阪湾をへだてて
紀伊半島が、西を見れば海峡をへだてて四国の山々、更に瀬戸内海にうかぶ島々が、手に....
「地球要塞」より 著者:海野十三
したいところだ。 その一方において、富士山がなくなり、その代りでもあるように、
紀伊《きい》水道が浅くなってしまって、ベトンの壁が突立っているのであった。一体、....
「山越しの阿弥陀像の画因」より 著者:折口信夫
伴と称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。
紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。 何の訣とも知らず、社日や、彼岸に....
「江戸の化物」より 著者:岡本綺堂
親しく見たということですが、麻布の龍土町(いまの港区六本木七丁目六~八番)に内藤
紀伊守の下屋敷がありました。この下屋敷というところは、多く女子供などが住んでいる....
「国栖の名義」より 著者:喜田貞吉
野国樔の条下に、諸国に多き栗栖、小栗栖の名は、『クズ』の転りにあらずやと疑われ、
紀伊国栖原浦に久授呂宮あり、社伝に国栖人の吉野より来りて祭れるものとなし、今国主....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
廷を置かれた御不便は想像に余りあるが、よく長い期間を維持出来たのは、大和・伊勢・
紀伊・河内・和泉がその勢力範囲であって、大和アルプスを脊椎とした大山岳地帯全体が....
「古事記」より 著者:太安万侶
、「お前がここにいるとしまいには大勢の神に殺《ころ》されるだろう」と仰せられて、
紀伊の國のオホヤ彦の神のもとに逃がしてやりました。そこで大勢の神が求めて追つて來....
「舞子より須磨へ」より 著者:小川未明
っているので、手が痛くなって、其処の松並木の下の草原で暫らく休んだ。 遙かに、
紀伊の山々が望まれた。海の上を行って、五十里はあれど百里はあるまいと思うと、学校....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
、共に桂河辺の土地で、川の流れとは反対に、斜めに東南から西北に存していた。これは
紀伊・葛野二郡の古代の条里制の研究から、ほぼその位置を推定することが出来る。中に....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
に殺害せられたが、此の破戒の僧も方広経読誦の功徳の為に、不思議に生命が助かつた。
紀伊牟婁郡の出身で牟婁の沙弥と言はれたものは、鬢髪を剃除し袈裟を着けながら、而も....