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至日
「至日〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
至日の前後の文節・文章を表示しています。該当する10件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「思想と風俗」より 著者:戸坂潤
、とに角主張ということにあまり価値を置かない人種のことである。少なくとも東洋的乃
至日本的な観念によると、実際家とはそういう不言実行の人を云うらしい。ヨーロッパ的....
「日本イデオロギー論」より 著者:戸坂潤
本精神」という命名自身の意味が甚だ疑わしいものとなるだろう。処が日本的なるもの乃
至日本精神の検出に参じ、又は単に日本の特殊事情に関する限りの論文は沢山載っている....
「認識論とは何か」より 著者:戸坂潤
対する宗教の本質的依存の関係も、おのずから明らかになるだろうと思う。特に東洋的乃
至日本的宗教(文化宗教に限るが)についてはそうだ。この種の「宗教」に於ける教学主....
「世界の一環としての日本」より 著者:戸坂潤
的な技術的範疇は日本的な道徳・習俗・の範疇と、継ぎ穂されざるを得ない。日本帝国乃
至日本国民の生命線を守るためには、重爆撃機や重砲が技術的範疇に従って機能して呉れ....
「辞典」より 著者:戸坂潤
て現われる。間に合う・時宜に適する、ということが新聞現象では極めて大切な時事性乃
至日常性の内容となる。ここから新聞現象の週期性なるものが見出される。新聞現象に関....
「現代日本の思想対立」より 著者:戸坂潤
の意義の大半を失うだろう。 地理的制限の上から云えば、この概観は主として日本乃
至日本文化圏に限られている。尤もそれの参照として、出来れば世界乃至外国の、学術文....
「再び科学的精神について」より 著者:戸坂潤
対物でもある。ここに教学の例の倫理道徳主義があったのである。教学という東洋文化乃
至日本文化に特に著しい名目的伝統が、何等か一応の文化的権威と生活上の真実を持つか....
「ひと吾を公式主義者と呼ぶ」より 著者:戸坂潤
ならぬ。特に教学というカテゴリーが西洋渡来の科学に対抗する代用品として、東洋的乃
至日本的な封建文化系統から拾われて来たことに、吾々は注意を払うことが必要だろう。....
「十日の菊」より 著者:永井荷風
す》る顔料となすからである。梔子の実の赤く熟して裂け破れんとする時はその年の冬も
至日《しじつ》に近い時節になるのである。傾きやすき冬日の庭に塒《ねぐら》を急ぐ小....
「認識論としての文芸学」より 著者:戸坂潤
として)、文学という言葉は無用な混雑を惹き起こすものに過ぎないからだ。 東洋乃
至日本には、文芸と文献(フィロロギー)との区別は概念上あまり判然としない伝統が存....