至芸[語句情報] » 至芸

「至芸〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

至芸の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
柿の種」より 著者:寺田寅彦
の客観的内容のないただ主観的なだけの自信をふり回す芸も困ることはもちろんである。至芸となると、演技者の自信が演技者を抜け出して観客の中へ乗り移ってしまう。エノケ....
梅津只円翁伝」より 著者:杉山萠円
圓翁 翁ハ旧黒田藩喜多流ノ能楽師ナリ。明治四十三年九十四歳ヲ以テ歿ス。弱冠ニシテ至芸、切磋一家ヲ成ス。喜多流宗家|六平太氏未ダ壮ナラズ、嘱セラレテ之ヲ輔導ス。屡....
現代唯物論講話」より 著者:戸坂潤
作方法)と学的方法との分岐があるので、之が取りも直さず科学(乃至哲学)と文学(乃至芸術)との区別と平行関係とを示している。 さてこうして学的方法は世界観の真理....
思想としての文学」より 著者:戸坂潤
の一等初めに云ったことから、すぐさま出て来る第二の点は、批評が必ずしも文芸批評乃至芸術批評に限るものではない、ということだ。現に政治に就いてはどこの国でも(日本....
マーカス・ショーとレビュー式教育」より 著者:寺田寅彦
にもエキスプレションにも少なくも理論的には相当な振幅はあった。ただ惜しいことには至芸にのみ望み得られる強い衝動が欠けていた。アメリカン・レビューにはそういう古典....
大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
星がまばたい一発だけであった。 清元の唄はなお聞えた。 「ああいいなあ。名人の至芸だ」安房守は嘆息した。それから大声でやり出した。「俺はもとからの江戸っ子だ。....
演劇の様式――総論」より 著者:岸田国士
またま、民衆の、自然発生的な、安手な娯楽的催しに端を発しがちであつて、文学的、乃至芸術的価値の点で、多くは、低い水準を脱し得ないのと、また逆に、現代文学の不必要....
落語・教祖列伝」より 著者:坂口安吾
きマネ、などをやってみせる。いつもニコニコと愛想がよくて、オマケにして見せる芸が至芸であるから、大そうな人気。とぶように売れる。元祖チョーセイアメ、ホラセンベイ....
明日は天気になれ」より 著者:坂口安吾
も女に敵しがたいところがあるが、豆狸やネズミやイタチは女狐ていどを手玉にとるには至芸に達していて、女は全然カスまざるをえなかったのではないかと思う。してみると、....
京鹿子娘道成寺」より 著者:酒井嘉七
ざる……。 この唄とともに、中啓の舞が初まるのでございますが、さすがに、名優の至芸と申すのでございましょうか、鐘にうらみの妄執が、浸みでているようでございます....
藤十郎の恋」より 著者:菊池寛
、彼は眉を顰めながら、 「われらの見るところは、また別じゃ。少長どのは、まことに至芸のお人じゃ。われらには、怖ろしい大敵じゃ」と、只一人世評を斥けたのであった。....
ジャズ狂時代」より 著者:小野佐世男
讃をあびている、ジョージ・川口とビッグ・フォアー、なかでも太鼓のジョージ・川口の至芸には思わず息をのんだしだい。ボンゴス、トムトム、スネアー、トーベース、シンバ....
クリティシズムと認識論との関係」より 著者:戸坂潤
。 * 武田武志著『美術論』は初めからこういう企図に基いている。ただその美術的乃至芸術的認識の機構分析が充分でないために、リアリズムと写実との原則的区別を読者に....
ハイカラ考」より 著者:木村荘八
だったにかかわらず、むしろその人態(形而上)をもって、老伊井の演じた「阿久津」は至芸となり、二筋道はあたって、その頃ぺちゃぺちゃだった新派はこれによって盛り返し....
夜寒に火を囲んで懐しい雑炊」より 著者:北大路魯山人
ず見る眼を喜ばせ、次に食べる心を楽しませるのである。 しかし、料理という仕事も至芸の境にまで進み得ると、まことに僅少な材料費、僅少な手間ひまでなんの苦もなく立....