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草創
「草創〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
草創の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「梓川の上流」より 著者:小島烏水
の御児、大綿津見《おおわたつみ》の生ませたまう穂高見《ほたかみ》の命《みこと》が
草創の土地で、命《みこと》は水を治められた御方であるから今でも水の神として祀られ....
「街頭から見た新東京の裏面」より 著者:杉山萠円
、云わず語らずのうちに流れていたのである。 プロ文化の末路 しかしこうした江戸
草創時代の元気横溢した平民の気象――逃げ水を追《おい》つつまきつつ家を建てた時代....
「食魔」より 著者:岡本かの子
間に、鼈四郎はもう伯母の擒となっていた。 この伯母は、女学校の割烹教師上りで、
草創時代の女学校とてその他家政に属する課目は何くれとなく教えていた。時代後れとな....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
しのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならない。万事
草創の際で、新政府の信用もまだ一般に薄かった。東山道総督の執事はそのために、幾た....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
及んでいた。本庁所在地松本以外の支庁も飯田と高山とにしか取り設けてなかったほどの
草創の時で、てんで木曾福島あたりにはまだ支庁も置かれなかった。遠い村々から松本ま....
「石狩川」より 著者:本庄陸男
な虫であるとは万人ひとしく認めていたところであるならば。
サッポロの役所は未だ
草創のまぎわであった。仕事の分課も画然としていなかった。画然とさせるまでも無かっ....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
が一歩京洛へ向って前進し、ここに光仙林王国が新たに出来上ったと見るべきで、今こそ
草創の際とはいえ、追って本山は胆吹よりこの地に移るかも知れません。 不破の関守....
「あるニュウ・フェイスへの手紙」より 著者:岸田国士
の見るところ、少くとも、三つの大きな原因をあげることができます。 第一は、新劇
草創の時代から、俳優は常に「人形」或は「生徒」の取扱いに甘んじ、作者と演出家が永....
「地上」より 著者:島田清次郎
より漂泊い来た人達が、この辺の曠野の広大さに、放浪の草鞋を脱ぎ捨てたのがこの村の
草創であった。耕すに比類のない豊かな処女地、処女地に潜む新鮮な生産力、――しかし....
「赤坂城の謀略」より 著者:国枝史郎
えぬ。然るに城中はすでに食尽き、援兵の来る望みもない。……元来天下の衆に先立ち、
草創の功を志す以上、節に当り義に臨んでは、命を惜むべきではない。とはいえ事に臨ん....
「我が円朝研究」より 著者:正岡容
、実に本邦講談落語速記の嚆矢《こうし》ではあるとされている。即ちそれほどの速記術
草創時代だったから、圓朝の一声一咳は全篇ことごとく情熱かけて馬鹿正直にまで写しだ....
「鴎外博士の追憶」より 著者:内田魯庵
いうを寄稿したのはマダ東校(今の医科大学)に入学したばかりであった。当時の大学は
草創時代で、今の中学卒業程度のものを収容した。殊に鴎外は早熟で、年齢を早めて入学....
「法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
て建築雑誌及び史学雑誌上に発表せられ、また芸術史家を以て任ずる平子尚君の「法隆寺
草創考」が、文献上から新武器を振りかざして、国華の誌上に発表せらるるに及んでたち....
「法然行伝」より 著者:中里介山
が、何分外にその人がないというわけで、異論をなだめて招請されたが、壇に上って大師
草創のはじめより、末代繁昌の今に至る迄、珠玉を吐くような弁舌に衆徒が感歎随喜して....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
に浮んで難波についたのが善記四年で、武烈天皇の四年に当たる訳であるから(『善光寺
草創考』)、法師君すなわち真に法師であったのかもしれない。しかしその後法師の語は....