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「草廬〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

草廬の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
吾輩は猫である」より 著者:夏目漱石
芽生《めばえ》で、鈴木藤十郎君の後進生である。三平君は以前の関係から時々旧先生の草廬《そうろ》を訪問して日曜などには一日遊んで帰るくらい、この家族とは遠慮のない....
丹下左膳」より 著者:林不忘
な声で、 「蜀漢《しょくかん》の劉備《りゅうび》、諸葛孔明《しょかつこうめい》の草廬《そうろ》を三たび訪《と》う。これを三|顧《こ》の礼《れい》と言うてナ。臣《....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
を惹《ひ》くということを、明白に御自覚でございました。王者の身を屈して、その人の草廬を三たびたずねられても、出づることを欲しなかったのは、大臣大将の身になるより....
丹下左膳」より 著者:林不忘
るほかあまり頭の内部を働かしたことのない左膳、すっかり困惑しきって、ちょうどその草廬《そうろ》に腰をおろして駄弁をろうしていたつづみの与吉へ、 「なあおい、与の....
ジャン・クリストフ」より 著者:豊島与志雄
》れていたから別段驚かなかった。しかし彼は今や、この新たな試みのあとに、スイスの草廬《そうろ》に立ちもどって、近来ますますはっきりしてきたある計画の実現を待つこ....
曙覧の歌」より 著者:正岡子規
草する半《なかば》にして、曙覧|翁《おう》の令嗣《れいし》今滋《いましげ》氏特に草廬《そうろ》を敲《たた》いて翁の伝記及び随筆等を示さる。因《よ》って翁の小伝を....
西航日録」より 著者:井上円了
に感ずるところあり。 読史曾驚革命初、憤然焼棄法王書、今人追慕翁余徳、此地猶存旧草廬。 (歴史を読んで、かつてその革命の初めに驚いた。憤然として法王の書を焼きす....
三国志」より 著者:吉川英治
もないが、時節が来たら、世のために、また、漢の正統を再興するために、剣をとって、草廬から起たねばならぬぞと」 「……はい」 「阿備。――その剣を人手に渡して、そ....
三国志」より 著者:吉川英治
もした。 仲翔もその一人だった。 彼は、黙々と、野を歩いて、これから隠れすむ草廬の地をさがした。 そして、名もない田舎の山にかかると、ほっとしたように、 ....
三国志」より 著者:吉川英治
で、叔父の諸葛玄にしたがって、兄弟らみなこの地方に移住し、後、一弟と共に、隆中に草廬をむすび、時に耕し、時に書をひらき、好んで梁父の詩をよく吟じます。家のあると....
三国志」より 著者:吉川英治
―兄はただ今より即ち皇叔に附随して新野の城へゆくであろう。汝は、嫂をいつくしみ、草廬をまもって、天の時をたのしむがよい。――もし幸いに、功成り名をとげる日もあれ....
三国志」より 著者:吉川英治
。先頃の進言を予が拒んだので、それが煩いの因じゃと申すのか」 「さればです。臣、草廬を出てよりはや十余年、菲才を以て君に仕え、いま巴蜀を取ってようやく理想の一端....
三国志」より 著者:吉川英治
とり、姜維の母の側へつれて来た。そして母子を前にして彼は云った。 「自分が隆中の草廬を出てからというもの、久しい間、つねに天下の賢才を心のうちでさがしていた。そ....
三国志」より 著者:吉川英治
ることは何としても否みがたい。まだ二十七歳でしかなかった青年孔明が、農耕の余閑、草廬に抱いていた理想の実現であったのである。時に、三|顧して迎えた劉玄徳の奨意に....
随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
江戸に下って、柳営の一顕僧となるのを余り好まなかったらしい。但馬の故里に、簡素な草廬を結んで、静かに風月を友としたかったのである。 寛永十二年の末、将軍の命に....