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行宮
「行宮〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
行宮の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「神社合祀に関する意見」より 著者:南方熊楠
蹟保存会で演《の》べたりと承る。大和には武内宿禰の墓を畑とし、大阪府には敏達帝の
行宮趾を潰せり、と聞く。かかる名蹟を畑として米の四、五俵得たりとて何の穫利ぞ。木....
「四条畷の戦」より 著者:菊池寛
としている。 正行の活動 延元四年の秋、後醍醐天皇は吉野の南山|
行宮に崩御せられた。北畠親房は常陸関城にあって此の悲報を聞き、「八月の十日あまり....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
の名を呼んで見るのもまだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の
行宮西丸に着御したもうたとの報知の届くころである。途中を気づかわれた静岡あたりの....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
ると、松林の間に人が集まって噪《さわ》いでいます。 日本武尊が東征の時、ここに
行宮《あんぐう》を置いて、 新治《にひはり》、筑波《つくば》を過ぎて幾夜《いく....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
。嘗て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草(薄・萱)を刈って葺いた
行宮に宿ったときの興深かったさまがおもい出されます。 この歌は、独詠的の追懐で....
「飛騨の顔」より 著者:坂口安吾
あったようだし、南下して今のミノの武儀郡を中心にミノのほぼ各郡と伊那にもミヤコか
行宮がちらばっており、一人の王様の南下の順路にいくつも出来たり、別の代の王様の居....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
しょう。三野王は四月に戻ってきて信濃の図を奉ったが、翌年十月にも使をだして信濃に
行宮をつくらせた。これは筑摩、今の松本あたりの温泉へ行幸のためならん、と書紀は書....
「三国志」より 著者:吉川英治
いか――」などと時々気に病んでいたりした。 ある時、側臣たちが、 「この洛陽の
行宮も、もうずいぶん殿宇が古くなっていますから、自然|怪異のことが多うございます....
「三国志」より 著者:吉川英治
た。 すでに長安まで行幸していた魏帝|曹叡は、ここに司馬懿を待ち、彼のすがたを
行宮に見るや、玉座ちかく召しよせて、 「司馬懿なるか。かつて汝をしりぞけて郷里に....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
と、それも弟を励ますためのように、いちいち足を止めては、説明して行くのだった。
行宮はなお上にあった。その
行宮の南面の廊の角に一|竿たかく、錦の旗が、大和、山城....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
や、郷士、法師らの献物もおびただしく、酒、麹、干魚、乾し果物、さまざまな山幸が、
行宮の一部の板屋廂には山と積まれた。 お湯浴みなども、久々であり、湯殿をめぐる....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
きた代々の家だった。北の彼方に、国分寺の址がある。――そして配所の帝――後醍醐の
行宮には、その国分寺の一部を修理して宛て、外には柵をまわし、警固には、清高の部下....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
騎を引きよせたまま、いよいよゆるぎもせぬという。 そのうえ、はるか伯耆船上山の
行宮からも、千種ノ中将|忠顕が、山陰中国の大兵を組織して、丹波ざかいから洛中をう....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
れも当時の評判であったという。 四明ヶ|岳の樹氷、湖水を研ぐ北風。叡山東坂本の
行宮は、寒烈、そんな一語ではつくせない。言語に絶する寒さだった。また敗報に次ぐ敗....
「こども風土記」より 著者:柳田国男
あったように今にいたるまで印象づけられている。 『日本外史』を読んで、笠置の山の
行宮の御夢に、二人の童子が現われて楠の樹の下を指ざし、爰ばかりがせめて安らかなる....