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「行幸〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

行幸の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
応仁の乱」より 著者:菊池寛
云う噂が立った。勝元は是を聞くや直ちに兵を率いて禁中に入り、主上を奉迎して幕府に行幸を願った。倉卒の際とて、儀仗を整える暇もなく、車駕幕府に入らんとした。所が近....
小田原陣」より 著者:菊池寛
題ではない。箱根山を千成|瓢箪の馬印が越せば、総て解決されるのである。 聚楽第行幸で、天下の群雄を膝下に叩頭させて気をよくして居た時でも、秀吉の頭を去らなかっ....
運命」より 著者:幸田露伴
四年の華奢をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨、陛下万里に行幸して、聖祚疆無からんと奏したりしかば、心得がたきことを白すよとおぼされしが、....
中国怪奇小説集」より 著者:岡本綺堂
五代の故宮である。その後にもここに都するの議がおこって、宋の太祖の開宝末年に一度行幸の事があったが、何分にも古御所に怪異が多く、又その上に霖雨に逢い、旱を祷って....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
ら唸《うな》り出させたという笑話を遺して居るが、それでも聚楽第《じゅらくだい》に行幸を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目くさって月並調の和歌を詠じている。政宗の....
万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
夜落ちず家なる妹をかけて偲びつ 〔巻一・六〕 軍王 舒明天皇が讃岐国|安益郡に行幸あった時、軍王の作った長歌の反歌である。軍王の伝は不明であるが、或は固有名詞....
堕落論」より 著者:坂口安吾
彼等はその必要を感じるよりも自らの居る現実を疑ることがなかったのだ。秀吉は聚楽に行幸を仰いで自ら盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
(勿論今は死んでいるが、当時八十五)の談によると、昔は岐れ道にあったが、慶応四年行幸のあったとき、通路に当って目ざわりだというので、他へ移したものだ、という。本....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
翌年十月にも使をだして信濃に行宮をつくらせた。これは筑摩、今の松本あたりの温泉へ行幸のためならん、と書紀は書いています。 ところが、信濃遷都も行幸も実行されな....
文学に現れたる東北地方の地方色」より 著者:佐左木俊郎
のとき、天皇は大いに嘉尚し給い、幣を奉じて畿内七道の諸社に告げ、……尋で東大寺に行幸、盧舎那仏に礼賽あり、百官の位階を進めて天下に大赦し、……天平二十一年を改め....
花筐と岩倉村」より 著者:上村松園
照日前に、花筐を持って君の御跡を追うて玉穂の都に上ったときが、あたかも君が紅葉の行幸に出御あらせられ、このところをお通りなさるときいて道の辺にお待ち申し上げた。....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
はあるが――とも言うべき出来事が起こった。それは麻布鳥居坂の井上伯爵邸へ両陛下が行幸啓にならせられて、劇場関係者一同が歌舞伎天覧の光栄を荷ったというのである。 ....
四十年前」より 著者:内田魯庵
も今日の文芸美術の勃興は欧洲文化を尊重する当時の気分に発途した。 井侯が陛下の行幸を鳥居坂の私邸に仰いで団十郎一座の劇を御覧に供したのは劇を賤視する従来の陋見....
国栖の名義」より 著者:喜田貞吉
一種で、里人とは大分様子の違ったものであったらしい。応神天皇の十九年に吉野離宮に行幸のあった時、彼ら来朝して醴酒を献じた。日本紀には正に「来朝」という文字を使っ....
道鏡皇胤論について」より 著者:喜田貞吉
道鏡に取り入って、その由義宮の為に設けられた河内職の長官に任ぜられ、天皇この宮に行幸の際の如き、彼は道鏡の前に倭舞を奏してその歓心を求める程の老練なる白パクレ振....