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評定衆
「評定衆〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
評定衆の前後の文節・文章を表示しています。該当する9件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「島原の乱」より 著者:菊池寛
五、参謀本部を構成し、益田好次、赤星主膳、有江|休意、相津宗印以下十数名の浪士、
評定衆となり、目付には森宗意、蜷川左京、其他、弓奉行、鉄砲奉行、使番等数十名の浪....
「法窓夜話」より 著者:穂積陳重
み》、酒井讃岐守、並に老中の邸で会議を開いたのであったが、寛永十二年十一月十日に
評定衆の任命があり、同じ年の十二月二日からは評定所で会議を開き、それより毎月二日....
「時 処 人」より 著者:岸田国士
北条氏が鎌倉の北条氏よりも一層民主的な政治を行うために、下級武士をも含む代議制の
評定衆なるものを設けたことに、もつと重要な意味があるのだそうだ。 なるほど、こ....
「秋の筑波山」より 著者:大町桂月
を滅せよとさへ遺言したり。親房の子顕家、鎮守府将軍となりて陸奥に至りし時、親朝は
評定衆、兼引付頭人となりて国政に参与したり。後に下野守護となり、大蔵権大輔となり....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
主も出て、とまれ、北条家七代の現執権高時の今にいたるまで、南北の六波羅探題以下、
評定衆、引付衆、問注所執事、侍どころ所司、検断所、越訴奉行などのおびただしい鎌倉....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
守護、毛利経光の四男である。少壮から変り者の方だったらしい。 しかし、六波羅の
評定衆に加えられ、その才はほどなく、鎌倉の執権代長崎高資の一族|泰綱にみとめられ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
人みな憚っている様子。余人がおいやなら、高氏がしてやろうと存ずる」 と、わざと
評定衆のなかで公言しておき、執権へも言っておいた。 執権の座は、かりに今、茂時....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
ております。承久ノ乱の前例もあることなので」 この縫之助秀正は、若年だが、鎌倉
評定衆のひとりで、文官的な才能がある。一族には大膳ノ大夫広秀、左近将監高広なども....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
あたる」 「…………」 「とだけでは、まだのみこめまい。それよ、わしがまだ六波羅
評定衆の一員として、都にいたころに取り交わした、高資や泰綱などの書簡の古束ねがこ....