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「農学校〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

農学校の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
星座」より 著者:有島武郎
の曲線の具合といい、並々の匠人の手で鋳られたものでないことをその鐘は語っていた。農学校の演武場の一角にこの時計台が造られてから、誰と誰とが危険と塵とを厭わないで....
錯覚の拷問室」より 著者:佐左木俊郎
洋服は吉川《よしかわ》訓導のだった。 吉川訓導は高等科を受け持っていた。甲種の農学校を卒業してから、さらに一か年間県立師範学校の二部へ行って訓導の資格を取って....
満韓ところどころ」より 著者:夏目漱石
したが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入《はい》ってしまった。それから独逸《ドイツ》へ行った。独逸へ行って、....
寒の夜晴れ」より 著者:大阪圭吉
った。三四郎が家を留守にしていたと云うのは、その頃県下の山間部に新しく開校された農学校へ、学務部からの指命を受けて学期末の一ヶ月を臨時の講師に出掛けていたのだっ....
田舎教師」より 著者:田山花袋
町であった。家並みもそろっているし、富豪も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。汽車が停車場に着くごとに、行田地方と妻....
みみずのたはこと」より 著者:徳冨健次郎
やかに目出度金婚式を祝うた。剛気の爺さんは、此まゝ楽隠居で朽果つるを嫌った。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部....
亮の追憶」より 著者:寺田寅彦
で卒業席次がいちばん下のほうであったにかかわらず、先生の推挙によってT県のF町の農学校の教諭として赴任することとなった。そして数年前に結婚して郷里に残してあった....
関牧塲創業記事」より 著者:関寛
記事 八十一老 白里 関寛誌す (一) 明治三十三年八月、又一は札幌農学校在学中シホホロ迄|来り、同地にて実地を検して且つ出願せんとす。 三十四年一....
鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
卅六年において長男の健行が前年を以て農科大学の乙科獣医科を卒業しこの年は宮崎県の農学校に採用されて赴任する事になったので、私もそれと同伴して松山に赴いた。その要....
武州喜多院」より 著者:中里介山
ここには北院、中院、南院の三大寺院があったのだ、東院というのは聞かないが南院は今農学校になっている、中院は誰れも気付かない北院より南寄りに一廓をなしているがこの....
次郎物語」より 著者:下村湖人
らぼうになっていった。 名簿には、「熊本県、二十六歳、村農会書記、村青年団長、農学校卒」とあり、備考欄に、「歩兵|伍長、最近満州より帰還」とあった。塾生たちも....
光り合ういのち」より 著者:倉田百三
という子がいた。これもやはり一里半はなれた田舎から通っていた。自作農の子で、兄は農学校を出て技師をしており、二人の姉さんは広島の師範学校を出ていた。この子は腕白....
火の扉」より 著者:岸田国士
にもほおを熱くして、さりげなく列をはなれる。 彼は、今年二十七になつた。郷里の農学校から東京の私立農科大学へはいりはしたが、中途で学校がいやになり、或る出版社....
誤った鑑定」より 著者:小酒井不木
てから、一人息子のハリーと共に暮していたが、事件の当時ハリーは二十二歳で、丁度、農学校を卒業したばかりであった。母のない家庭であったため、父子は非常に親密であっ....
食べもの」より 著者:佐藤垢石
元、岩槻根深、小松菜、唐黍など。 そしてこの、園芸の師匠は本家の邦雄さんと呼ぶ農学校出の青年である。恐らく、この夏から秋にかけては、素晴らしい果菜が、山のよう....