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養老
「養老〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
養老の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「夫婦善哉」より 著者:織田作之助
》に葬式が出来た。おまけにお辰がいつの間にはいっていたのか、こっそり郵便局の簡易
養老保険に一円掛けではいっていたので五百円の保険料が流れ込んだのだ。上塩町に三十....
「青春の逆説」より 著者:織田作之助
って、皆んなでグラウンドへ担いで行き、グラウンドを一周してから代表者がそのパンを
養老院へ持って行って寄附することにすれば、下手な仮装よりもぴりッと利いて面白く有....
「婦系図」より 著者:泉鏡花
で快く御酒を召食れば、それに越した事はありません。後にその筋から御褒美が出ます。
養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概酒を飲みますものです。貴女を(お....
「観画談」より 著者:幸田露伴
も今は貧乏寺だが、その寺の境内に小さな滝があって、その滝の水は無類の霊泉である。
養老の霊泉は知らぬが、随分響き渡ったもので、二十里三十里をわざわざその滝へかかり....
「めでたき風景」より 著者:小出楢重
れを市民博物館へ寄附したらどうやとの事で、私も直に賛成した。そして、亀は漸くこの
養老院において、万年の齢を保とうというのである。 新緑のもとに女鹿が子供を連れ....
「伊勢之巻」より 著者:泉鏡花
さるお嬢さんの従兄子でね、あの美術、何、彫刻師なの。国々を修行に歩行いている内、
養老の滝を見た帰りがけに煩って、宅で養生をしたんです。二月ばかり前から、大層、よ....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであろう。また、穂積朝臣老が近江行幸(
養老元年か)に供奉した時の「吾が命し真幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
を養う水の精とはこれだ。このフシギを目のあたり見てはジッとしてはおられん。よって
養老と年号を変え、罪人の罪を許す」 大そう変ったミコトノリを発して年号を変えて....
「鴎外の思い出」より 著者:小金井喜美子
歳の時でした。 順吉は眉目が秀麗で、動作が敏捷でしたから、誰にも愛されました。
養老館に入って学びましたが、十四歳になった時には、藩の子弟にも及ぶ者がないと推奨....
「火葬と大蔵」より 著者:喜田貞吉
ある。 解する人はこの文を以て大宝当時のものでなく、今伝わっている令の本文は、
養老年間に藤原不比等の修正したものであるから、
養老当時の実際を書いたものだと言っ....
「法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
なく日本紀は天武天皇朝以来の、国家の継続事業として編纂せられた勅撰の国史として、
養老四年に至って完成奏上したものである。かくの如き性質の勅撰の史籍において、眼前....
「私の履歴書」より 著者:浅沼稲次郎
伊豆七島に流すと古書にある。島には有名流罪人の史跡が多い。三宅島という名の由来も
養老三年(皇紀一三七九年)に、多治見三宅麿がこの島に流されてから三宅島と名づけら....
「「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
島にも住んでいたと信ずるものである。斉明天皇の御代に阿倍比羅夫が征伐した粛慎や、
養老年間に渡島津軽津の司諸君鞍男が調査に行った靺鞨というものは、このオロッコ族で....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
尼房に男夫を停めることもできなかった。この規定の如きは比較的厳格に※行せられて、
養老元年には、行基の如き高僧すらが、歴門教化をしたり、食物以外の余物を乞うたり、....
「融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
ります。 今日ならば自ら生活しえぬような気の毒な人々は、これを孤児院、養育院、
養老院などへ収容します。そして国家なり、社会なり、有志の人々なりが、進んでこれが....