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「高倉〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

高倉の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
俊寛」より 著者:芥川竜之介
は、微塵《みじん》も貯えてはいなかった。」 「しかしあの頃は毎夜のように、中御門高倉《なかみかどたかくら》の大納言様《だいなごんさま》へ、御通いなすったではあり....
玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
くなって、路ばたになびく柳の葉も一いちかぞえられる程であった。 姉小路を出て、高倉の辻へさしかかると、ゆき先きで犬のほえる声がきこえた。気にも留めずに歩いてゆ....
山と雪の日記」より 著者:板倉勝宣
き怪物 百鬼夜行雪の上をはいずる 五色温泉より高湯へ 十二月三十日高倉山へ行くつもりで仕度をしていると、ウインクレル氏から高湯へ行こうといってきた....
母への追慕」より 著者:上村松園
れ程うれしかったことか知れなかったのである。 母はしかし、火事の打撃にまけず、高倉の蛸薬師に移って、やはり葉茶屋をつづけながら私たちの面倒をみ、その年の秋に姉....
「平家物語」ぬきほ(言文一致訳)」より 著者:作者不詳
葵の前 (高倉) 其の頃何より優美でやさしいことの例に云い出されて居たのは中宮の御所に仕....
雪の宿り」より 著者:神西清
の費え六十万|緡と申し伝えておりますし、また義政公御母君|御台所の住まいなされる高倉の御所の腰障子は、一間の値い二万|銭とやら申します。上このようななされ方ゆえ....
大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
ていた。で安政年間には有名な水戸の天狗党が、諏訪の地を蹂躪した。又文久年間には、高倉三位と宣る公卿が、贋勅使として入り込んで来た。勝海舟の門人たる相良惣蔵が浪士....
あのころ」より 著者:上村松園
びしかったので、そのことはひたかくしに隠して来たのだそうです。 この祖父が京都高倉三条南入ルのところに今もあるちきり屋という名代の呉服屋につとめて、永らくそこ....
画筆に生きる五十年」より 著者:上村松園
母が営んでおりました。祖父は、大阪町奉行であった大塩後素の甥に当たりまして、京都高倉の御召呉服商長野商店の支配人を永らくいたしておりました。祖父は、一時、主家の....
京のその頃」より 著者:上村松園
ついた頃のあの辺を思い出すと、ほとんど見当もつかない程の変りようだ。 東洞院と高倉との間、今取引所のあるところ、あすこは薩摩屋敷と言ったが、御維新の鉄砲焼の後....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
の大立廻りが最も好評であった。そのときは二代目左団次がまだ莚升といった若い頃で、高倉宮を勤めていた。松居君はその後、明治座のために「後藤又兵衛」を書き、日露戦争....
わが母を語る」より 著者:上村松園
かされたというのではないのですが、見よう見まねでその通りやっております。 母は高倉三条のちきりやという、冬はお召、夏は帷子を売る呉服屋に通勤していた支配人の貞....
昔尊く」より 著者:上村松園
る思いで、幾月か半焼の屋根の下に母子して暮しましたが、結局どもならんしで、丁度、高倉の蛸薬師下るに家がありましたので、そちらへ宿がえすることになったわけでした。....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
らせられた院について述べなくてはならない。 『増鏡』によって記すと、後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子、安徳帝の西海へ遷幸されて後、寿永二年八月に、御年わずか二歳で....
放免考」より 著者:喜田貞吉
が、その後いつとなくまた互いに華美を競うようになったとみえて、「吉記」安元二年(高倉天皇朝)四月二十二日条に、賀茂祭の行列の状を記して、 右府生紀 兼康 左府生....